前のページでは、
『和訳しない』ということに関連して、
『英語の「音」だけを使って理解に結びつける』
というお話をしました。
今回から2回に分けて、
『訳すことの2番目の弊害』について
お話させていただきたいと思います。
私も多読を始めて、
色々なことに気がつかされました。
Flyは「飛ぶ」ではないということ、
climbは「登る」ではないということ、
lookは「見る」ではないということ、
beforeは「~の前に」ではないということ、
fastは「速い」だけではないということ、
pushは「押す」だけではないということ、
bankは「銀行」だけではないということ…などなど。
これからまだまだ気づくことばかりだと感じます。
いわゆる「直訳」というものが使い物にならないというのは、
中学生くらいから感じていましたが、
多読を始めて改めて「その通りだなぁ」と思うようになりました。
2つの映画に出てきたセリフから例を出させていただきます。
①“Open your eyes. Now, how did you feel?”
②”Open your eyes. This was (a) divorce between two people!”
①は、主人公である小学生の女の子が夏休みに行われる
大人対象のライティング・クラスに参加し、
そのClassで「テレパシー」のようなものを体験する、
という場面で使われているセリフです。
クラスで輪になって座り、手をつないで目を閉じています。
中心となっている人物が、
(この人がこういう “宗教的なこと” が好きなんです)
終了時にリラックスした状態で、
落ち着いた口調でクラスの全員に向かって①のセリフを言います。
②は、親が離婚し別々に育ってきた3人姉妹と1人の弟
が繰り広げるストーリーの終盤で、
次女が長女に向かって、
「両親が離婚したのは自分たちの問題ではなく二人の間で起きたことなのだ」
ということを長女に分からせるために、強い口調で言うセリフです。
とっても感動的な場面です!何度見ても泣けました。
①の“Open your eyes.”と
②の“Open your eyes.”は、
文字としては全く同じですが、
『意味するところ』というのは変わってきます。
同じ言葉でも使われている状況が異なるのですから、
それも当然と言えば当然のことかもしれません。
しかしこの時に、
①を「目を開けろ。今、あなたはどのように感じましたか?」と訳すことと、
②を「目を開けろ。これは二人の人々の間の離婚だった」と訳すことは、
『話の流れを楽しむ』ための “ジャマ” をしているだけ
のように思えてきませんでしょうか?
正に「興ざめ」です。
感動的な場面も、これではぶち壊されてしまいます。
これで「分かったー!」としてしまうのは、
一種の“詐欺”ではないかと思います。
①は「さぁ、目を開けてぇ。どうでしたか?」というような意味合い、
②は「目を覚まして!これは二人の問題だったのよ!」というような意味合い。
或いは
②は「もう、いいかげんにして!」というニュアンス
も含まれていると思います。
そのくらいの方が、
その場面としては「正しい理解」なのではないでしょうか。
それが英語の「文としての音」から伝わってくるのであれば、
より深い『分かった』につながり、
喜怒哀楽などの『感情としての理解』にもつながっていく
のではないかと思います。
それは『頭としての理解』とは全く異なるものです。