前のページでは、『辞書はひかない』理由をお話いたしました。
今回は、『和訳しない』ということについてお話いたします。
「英語教育の“目標”」というのは、
人それぞれ考え方の異なるところではないかと思います。
「受験で使える」
「受験に受かる」
「資格をとって仕事に生かす」など、
その方の年齢や置かれている状況によって変化してくるものではないでしょうか。
最近でこそ、社会人の方々が急に仕事で英語を必要としたり、
幼児英語や児童英語が発展してきたことなどから、
『英語で話せるようになる』という点も、
大きな“目標”として認識されてきたのではないかと思います。
このページをお読みになって下さっている方は
ご理解いただけていると思いますが、
私のイメージしている「英語教育の “目標” 」は、
『英語が使えるようになる』ということです。
『英語で話せるようになる』というのもそのうちの1つと考えています。
そのような前提でお話させていただきますと、
『英語が使えるようになる』ための目標として、
『英語を英語のまま理解する』という必要が出てきます。
『英語を英語のまま受け入れる』
『英語を英語のまま “操る” 』
と言った方が分かりやすいかもしれません。
どういうことかと申しますと、
『英語の「音」だけを使って理解に結びつける』
ということです。
「そんなのむずかしい!」と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
母語であれば、自然とやっていることではないでしょうか。
例を出しましょう。
「湖のほとりに少年がいた。」という文を声に出してみると、
ある程度の大きさの湖を思い浮かべながら、
その近くに少年が1人立っている情景を思い浮かべたりされると思います。
わざわざ「このくらいの湖があって、
その周りに道でもあって(手や腕で円をつくりながら…)
ちょうどこの辺に男の子が1人立っていたのかな?」などと考えなくても、
「湖のほとりに少年がいた。」と音に変換するだけで、
イメージへと繋げている筈です。
これが英語であっても、
「言葉の理解の仕方」として違いがない方が理想的ではないか、ということです。
つまり、
There was a boy by the lake. を
「そこに/~がいた/ひとりの少年/~の側に/湖」と単語を調べ、
「 “湖のほとりに1人の少年がいた” ということかー!分かったゾー!」と、
そこで終わりにするのではなく、
There was a boy by the lake. と
『英語の “文としての音” 』でもって、
その『意味するところ』を想像できる…。
そういうレベルに持って行くことが、
『英語を話せるようになる』ということに繋がっていくのではないか…。
そのような考え方が最近の主流なのではないかと感じています。