前のページでは、「大きな樽」についてお話ししました。
英語を学んでいる私たちが背負っている樽には、
「エイゴ」という水がどのくらい入っているでしょうか。
そして、どのくらい大きな「ひしゃく」を手に入れているでしょうか。
私が高校を卒業した頃というのは、ほとんど水が入っていませんでした。
しかし、今では多少なりとも水が増えたことを実感できます。
言葉の能力に対する“評価”というのは、そのくらいで十分なのではないかと感じていますが、
その理由は改めて、お話しいたします。
前回、「話す」ということに関して書きましたが、
大学生や社会人の中で、「話す」という場面に直面してみて、
初めて「英語が使えない」ということに気が付いた方も多いかと思います。
私もまったく同じ状態でした。
英会話スクールがこれほどまでに増えたのも、納得ができると思います。
それまで学校で “教科として” 英語を勉強してきた人々が、
「話す」必要が出てきたときに向かう方向としては、
「聞く」というのと「読む」というものがあります。
個人的に私は「聞く」という方向に突っ走ったわけですが、
「読む」という方向に向かう方々もいます。
どちらも大切なことなので、自分の好きな方を中心にしても良いと思うのですが、
今にして思えば、「読む」という行為の方が
「聞く」という動作も含んでいることに気が付きます。
「聞く」だけでは、「リスニング」だけに終始してしまう傾向があるのです。
「読む」という行為は、実は多くの要素を含んでいます。
声を出せば「話す」行為につながりますし、
それはそのまま「聴く」という行為にもつながっていきます。
私は当初、発音を直す必要性を痛感して
「聞く・話す」という点にこだわっていたところがありましたが、
「読む」作業を続けていくうちに、次第に発音も良くなっていくようです。
発音に一生懸命だった私としては、
読んでいくうちに発音が良くなっている人を見たりすると、
すこ~し “悔しく” なりました。
どうして良くなるのかなぁと考えたりしましたが、
それについての自分なりの“回答”は、次のページに書かせて頂きたいと思います。