前回は、
ひとり「ひきこもって」練習をしたり、
誰にもジャマされないところで
自分の「英語を操る力」を磨いたりすることが本当に大切ではないか、
というお話をさせていただきました。
前回だけで終わりにする予定だったのですが、
以前、私が埼玉県の志木市に住み始めた時によく見かけた
「誰にも見られずコツコツと練習をしている人」について、
ぜひともお話させていただきたいと思います。
その方も活動時間は夜なのですが、
私が仕事から帰って家に着く頃、
近所のマンションの前の駐車スペースのようなところで、
その方はひとりコツコツと練習をしています。
おそらく「社会人野球」か何かをやっている方だと思うのですが、
ひとり黙々と『素振り』の練習をしているのです。
週に2回程やっているのではないかと思います。
誰にも見られずコツコツと、
誰に誉められる訳でもなく、
誰に“けなされる”訳でもなく、
見えないところで「地味~な練習」をする・・・。
どうしてそんなことをするのでしょうか?
わざわざ『素振り』なんてしなくても、
皆で集まる練習の時や試合の時に、
ちょこっと体を動かして楽しめればいい・・・。
そういう考え方もないとは言えません。
でもこの方は、
いざバッターボックスに入った時に確実にヒットが打てるように、
『素振り』の練習を欠かさないのだろうと思います。
それはつまり、
ちょっと体を動かして得る“楽しさ”ではなく、
良いバッティングをした時の本当の気持ち良さ、
一生懸命ともに練習してきた仲間たちと分かち合う心からの喜び、
そして試合の後の「ちょっと一杯」という楽しみもあるでしょう。
そういった
「本当の喜び」
「本当の楽しさ」
というものを経験したことがあるからこそ、
この方は『素振り』という
「地味~な作業」を辞めずに続けているのではないかと思います。
英語の場合はどうでしょうか?
これまでの中学校から始まる英語教育において、
『素振り』のような「地味~な作業」をやってきましたでしょうか?
そもそも英語を身に付けようとしている人にとっての
『素振り』に値する事とはどういうことなのでしょうか?
今この文章を書いていて気が付きましたが、
「いざという時」や
「咄嗟の時」というのをどのように考えるかによって、
『素振り』に値するのがどういうものなのか
ということが変わってきてしまうのではないかと思います。
「いざという時」=「受験」であれば、
その人にとって“素振り”は「単語帳」や「問題集」なのでしょう。
「咄嗟の時」=「会話」であれば、
その人にとっての“素振り”は
「英会話」や「シャドーイング」になったりするのではないかと思います。
さらに、「いざという時」=「咄嗟の時」=「スピーチ」などになったりすると、
「英絶」の第5ステップのようなやり方になるのかなぁと感じています。
(実は最近、個人的に “第5ステップもどき”をやっていた時期がありました。)
いずれにしても、
その時その時に自分が必要としている能力・・・
「受験」だとか
「会話」だとか
「話す」
「聴く」
「読む」
「書く」
と言われているような “技術” を習得するために
もっとも効果的そうな「地味~な作業」を、
人から言われてやるのではなく
『自分から』続けていく・・・。
そういう「地味~な作業」が必要になってくるのだと感じています。
だからこそ、色々な人の色々な“目標”のために、
色々な英語学習法と呼ばれるものが出回っているのではないでしょうか。
でもです・・・。
「受験」
「会話」
「話す」
「聴く」
「読む」
「書く」というものを、
“別個のモノ”と考えてしまうと、
実は結構大変なことになってしまうのではないかと感じています。
それについてはまた次回、お話させていただきます!