上の方のページで、「棒読みでない読み」というのも色々あるというお話をしました。
「理解を伴った読み」と言っても、
一般的な人が小説を読むときに読む「読み方」と、
役者の方々が台本を読むときの“読み方”は同じではないという例も出しました。
棒読みでない読みにしようとするためには、
ネイティブの声を聴いて真似てみたり、リピートしたり、
少なくとも聴いたものを繰り返せるくらいの聴く力が必要になってくるだろうと思います。
そのためには、どうしても『耳のチューニング』が必要になります。
子どもの場合も大人の場合も、その言葉で使われている「音」に慣れ、
自分の口からもその「音の並び」を出すことに慣れていくには、
それなりに時間がかかります。
それは、成長の早い赤ちゃんですら
長い時間をかけてコトバを話すようになることからも想像できると思います。
また、殊に英語を “外国語として” 学んできた大人の方々の場合、
それまでに身に付けた発音をほとんど「捨てる」必要も出てくる可能性もあります。
それまでの自分の発音を
Unlearnして音を入れ直す場合も、“自分の発音” のままやっていく場合も、
「一般的な読み」という段階まで持っていくには、どちらも時間がかかります。
“発音が良い” というのは
「アルファベットで表わされるひとつひとつの音を “正しく” 出せる人」というよりも、
「流れるように話せる人」のことだろう、と最近では強く感じています。
つまりは「流暢に話せるスピード」が必要ということです。
実際に自分の口で流れるように英語を話す練習
をしてみないとなかなか実感できないことかもしれませんが、
その際の「スピード」という感覚を掴むためには『リズム』が必要になってきます。
ただ、このような方法が好まれない理由として、
「どのくらいの量を続けたら、ハッキリと見える“効果”を感じられるのか分からない」
という事もあるかと思います。
“だからこそ”、楽しい方法、自分にとって続けられる方法でなければ、
途中で投げ出してしまう可能性が大きくなってしまう訳です。
加えて、本人の「英語を話したい!」という強い動機付けも
ある程度は必要になってくるかと思います。
しかし、です…。
どれだけ「英語が話せるようになりたい」と強く思っていても、
英語の “トレーニング” とか “練習” と呼ばれるコツコツと続ける作業に
毎日のように多くの時間を使うというのは、相当に大変なことです。
そこで、常に忘れてはいけないことは、
言葉の本来の役割というのは『何かを表すこと』だということです。
言葉というのは本来、「学ぶ対象」「研究される対象」とされるのが役割ではなく、
それを使って何かを表したり、伝えたり、文章として残したり、それを操る人が
その言葉を使って表される世界(内容)の方に意識が向かうようになってこそ、
コトバの言葉としての役割を果たしているのではないか…。
その事だけは忘れないようにして頂きたいと思っています。
要するに、逆説的ですが、
ことばについて考えているうちは “ダメ” なんだ、ということです。
言葉それ自体の構造や文法に関心が向かって母国語で云々しているうちはまだまだ “ダメ” で、
それを使って表されている事柄や生活する上で必要な行動を “円滑に” 行うための『道具として』その言葉を使い、その言葉を使ってできることを増やしていく…。そういうことが必要になってくるのだろうと思います。
物語の世界を楽しむための『道具として』英語で読んだり、
聴いたりする「多読」や「多聴」という方法は、
英語を『使う』という考え方を反映したひとつのやり方として素晴らしく、
着実にこれからの主流となっていくのではないかと感じています。