前のページで「語数」について書かせていただきました。
今回は「スローなレベル上げの大切さ」についてお話させて頂きたいと思います。
結論から書いてしまいますと、要するに
「レベルは“上げる”ものではなく、“上がる”もの」なんだということです。
たくさん読んでいく中で、ある時ふっと、
「そういえばこのくらいの文章も読めるようになったんだなぁ」
と思うときが必ず来ます。
そのタイミングを“無理して作ろう”としてレベルを上げるのではなく、
快適に読めるものをたくさん読みながら、興味に沿って、
よりカンタンなレベルの本から少し長い本まで、
色々なレベルを混ぜながら読み続けるということが、
レベルが上がるために必要なことなのではないかと感じます。
多読を続けていく上で、読めるレベルが上がるというのは、
「学ぶ側」の方にとっても、「教える側」の者にとっても、たいへん喜ばしいものです・・・。
学ぶ方としても早く上のレベルのものが読めるようになりたいと思い、
教える方としても、早く高いレベルのものが読めるようになってほしいと願う・・・。
しかし、そこには「恐さ」も存在します。
これまでの英語教育の感覚から言うと、
「教える側の者」が早く高いレベルの英文に触れさせようとして、
「学ぶ側の人」の興味や関心、そして楽しみながら読めるレベルよりも、
受験に必要になるレベルを優先するということが行われてきました。
また多読の場合、「学ぶ側の人」がとても意欲的で、
どんどん難しいものやそれまで読んでいた本よりも大変長いものを
ムリして “意欲的に” 読むということも出てきます。
しかし、これはどちらも “違う” だろうと思います。
「手段」と「目的」が逆転してしまっています。
100万語多読の「目的」は
『100万語、200万語・・・と読み(聴き)続ける』ということです。
そのための「手段」として『色々な種類のレベルの本を楽しみながらたくさん読む』という必要があるわけです。
自分の興味を優先してたくさんの本を読んでいけば、
実感としてのレベルは上がったり下がったりしながらも、
確実に読めるレベルは上がっていきます。
それに伴って、少しずつ英語をコントロールする力も付いていきます。
そこで本当に重要になるのが、『自分から』という姿勢です。
このサイトでは初期の段階から言ってきましたが、
この『自分から』と『自分のペースで』というのが、
本当に大切になってきます。
だからこそ、“英語のテスト” などというものは、
自分から申し込んで受けるもの以外はなくしてしまいたいものです。
「教える側」が難しい文ばかり与えていては、
早く終わらないかと “我慢して” 読むことになってしまい、
その文を読み終える頃には
次の文章を読もうという気持ちが薄れてしまう危険性が大きくなります。
同様に、多読においても、
自分が普段読んでいるレベルよりも長い本を “意欲的に” “頑張って”読んでしまったりすると、
それ以降、まったく読まなくなってしまうということも出てきます。
実際に1人、そういう方が身近にいました。
(でもその方は、自分なりの方法で、もっと難しい内容のものをシャドーイングしたりしていましたが・・・)