私は以前、
「読むスピード」が「理解できる幅」も広げてくれる、
というようなお話をしました。
「安定した読み」とでも言いますか、
“上手に” 読めるようになってこそ、理解も安定したものになる
のではないかと思います。
それは母語の時も同じだった筈です。
やはり「棒読み」の人よりも、
音読の上手な人の方が、読んでいる文章の理解度は高いだろう
という印象を受けます。
小学生の頃、普段話したりする時は問題ないのに、
音読になるとものすごく苦手という人がいました。
それでも中学生くらいになれば、
“一般的な” 読み方をするようになっていましたし、
音読以外の場面で生活に困るというようなことも
まったくありませんでした。
外国語の場合、
この “一般的な読み” という段階に達するまでに
相当な時間がかかるのではないかと思います
(しかし、母語でかかった年数ほどではないとは思います)。
私は「英絶」の方法で学び始めるまで、
英語の “一般的な読み” が出来ていませんでした。
高校生の頃までは、
英語に対して本来の意味での「読む」という行為が
まったくできていませんでしたし、
しようともしていませんでした。
もっと正確に言えば、
そういう “一般的な読み” というものを身に付ける必要がある
ということを、考えたことすらありませんでした。
「棒読み」と「棒読みでない読み」
(つまりは「読み」ですが・・・)の違いは何かという事は
なかなか表現しづらいかもしれませんが、
要するに「理解」が伴っているかどうか
ということではないかと思います。
“理解が伴っているかどうか” という表現は
少しカタくて違和感もありますので、
「わかってるかどうか」くらいの言い方が良いかもしれません。
「棒読み」と「棒読みでない読み」、
どちらもたくさんの『段階』があると思います。
まったく読めないという段階から、
ひとつひとつの音をハッキリと読まなければ読めない段階、
それよりも速いけれど、まだまだゆっくりという段階。
ある程度読めるけれども途中で何度もつっかえるという段階…
などなど。
「棒読み」の中にも色々あると思います。
また、小学1年生の「棒読み」と
小学6年生の“棒読み”などにおいても、
印象としての違いはあるでしょう。
一方、「棒読みでない読み」にも、
様々な段階があると思います。
ゆっくりなら読める段階、
途中で詰まりながらも何とか読める段階。
ある程度のスピードで読める段階。
スラスラと流れるように読める段階。
自分の読むスピードに劣等感を感じることよりも、
書かれている「内容」の方に完全に意識を集中することができる段階、
文字を目で追うだけで、流し読みができる段階…などなど。
「棒読みでない読み」というのも色々とあるのでしょう。
また、「理解を伴った読み」と言っても、
一般的な人が小説を読むときに読む「読み方」と、
役者の方々が台本を読むときに読む『読み方』というのは、
決して同じではない筈です。
「読み」と言っても、
「棒読み」と重なる部分のある段階の “読み” から、
「話す」「表現する」という部分と重なる段階の「読み」まで、
本当に色々とあるものです。
これまでの英語教育というのは、
そういう「段階」というものを
全く考えてこなかったということではないかと思います。
「音としての読みのレベル(段階)」
を上げようとするのではなく、
とにかく何でも日本語訳に当てはめて理解しようとする。
音読を上手くしようとするのではなく、
ひとつでも多くの単語の訳し方を覚え、
ひとつでも多くの文法を覚え、
わざわざ日本語の順番に直し、
如何に日本語で “納得” するかということに力を注いで来た
のではないかと思います。
それでは英語の音をコントロールするための
耳や舌を鍛えることにはなりませんし、
英語を英語のまま理解したり、
文章をスラスラ読んだりする段階からは、
遠ざかってしまうばかりです。