亀家さん

参道にあるお店「亀家本舗」さん。

このページは亀家さんについてのご紹介となります。

女将さんには大変お世話になりました。

亀家さん軒先の新聞〜其の①

2008/12/2

「亀家さん」  亀家さん

亀家さんの軒先にある新聞の拡大ポスター。


内容を紹介したい。


昭和61年(1986年)11月25日(火曜日)


 “とらや”には、実はモデルがあった。 

“とらや”に象徴される山田組の姿勢は故郷を失ってしまった日本人は幸福なのかという問いかけだ。

ドキュメント「男はつらいよ」


とらやセット


雰囲気変えぬ苦労


美術(上)


寅さん(渥美清)が旅先でマドンナと出会い、

熱に浮かされたようにとらやに戻ってきて、

さくら(倍賞千恵子)やおいちゃん(下條正巳)、

おばちゃん(三崎千恵子)をあきれさせる場面は、

ファンが毎度楽しみにしているハイライトのひとつだ。

寅さんにしてみれば、いつ帰ってきても変わらぬ人々が

変わらぬたたずまいの中で自分を待っていてくれる・・・・

そう安心しているから、マドンナへの思いに没頭してしまう。

そこにオロオロする周囲とのギャップが生まれて、おかしい。


新品もわざと古びかせ


17年間、37作にわたってこの場面を支えているのが

とらやのセット。

一般の観客にはなにげなく見過ごされてしまうだろうが、

逆に違和感を与えず「なにげなく見過ごさせる」ためにこそ、

実は大変な苦労がかけられている。

セットの責任者は美術監督・出川三男。

「僕は第16作(50年12月公開「葛飾立志篇」)から

山田組についた3代目で、とらやのセットは

最初の梅田千代夫さん時代からほとんど変わってません」

と言うが、17年間変わらぬ姿を

保持するのが大変なのだ。


セット撮影が始まる2週間前から、バラして倉庫にしまい込まれていた

セットの建て込みが始まる。まず土台のコンクリートを敷き、

家屋を5~6人がかりで組み立てるのに1週間。

残る1週間は仕上げだ。汚れた壁紙は毎回張り替えるが、

まっさらなのも変だから適度に汚さなければならない。

しまい込んであった木の部分には柱から欄間にいたるまで

ワックスがけをする。

いすが壊れて再使用できないとなれば、新品を買って

その表面をバーナーで焼き、ワイヤブラシで削って

からワックスをかけて、使い古した感じを出す。

「柱ひとつとっても、長年使ったことで自然な丸みや

深いつやが出ている。

今、同じセットを新しく一から作り直せといわれても

ちょっと無理でしょう」と出川。

ギネスブックに載った世界最長シリーズを支えてきた

セットならではの話である。


このとらやには、実はモデルがあった。

第1作「男はつらいよ」(昭和44年8月公開)製作

にあたり、監督の山田洋次と当時の梅田美術監督

(現松竹映像事業部)が柴又にロケハンして

見つけた「亀家」というだんご屋。

「店から土間が通って裏まで通じる、関西の商家に

よくあった奥行きの長い作りが非常にいい感じ

だった。それが、第2作ができて2年ほどで鉄筋の

ビルになっちゃって。今は面影もないですよ。」と、

山田はいかにも残念そうだ。


実際にはすさまじい勢いで変わりつつある下町を、

苦心惨たんしながら昔のままの形で描く。

このとらやのセットに象徴される山田組の

姿勢は、文明の進歩に必死に歩調を合わせ、

“変わらぬ故郷”を失ってしまった日本人が果たし

て幸福なのかという、観客への問いかけでもある。



【11月24日】

昼間は大船撮影所第5ステージにつくられた

ラーメン屋・上海軒のセットで、同店に勤め始めた

美保(志穂美悦子)らの撮影。

午後6時からは第1ステージに完成したばかりの

看板屋・創美社のセットで、健吾(長渕剛)が

チンピラにからまれそうになった美保を助け、

自分の部屋につれて帰るシーンを撮影した。



寅(渥美清・右)が帰ってきたところへマドンナ(志穂美悦子・中)が

ひょっこり・・・おなじみのハイライトシーンを、

どっしりとしたセットが支える(大船撮影所で) 


亀家さん軒先の新聞〜其の

亀家さんの店先には

もうひとつ別の新聞もある。


それはひっそりと

寅さん人形の入ったケースの上に置いてある。 

このケースの中には

旧亀家さんの間取りを紹介したミニチュアが入っている。


そのケースの上には

前回のポスターと比べるとかなり小さい。


しかも参道からは見えず

本当に興味を示してくれた方だけが気がつくように

ひっそりと・・・・

でも赤ペンで丸囲みするくらい気持ちのこもったものなのだ。


こちらである。 

以下内容をご紹介しよう。




1989年(平成元年)1月17日(火曜日)





柴又「とらや」異変



「おいちゃん、

一体どうなっちまったんだ」


-----シリーズ四十作もヒット中の松竹

「男はつらいよ・サラダ記念日」で、寅さんの実家、

葛飾・柴又の草だんご「とらや」に“異変”が起きた。

「とらや」が「くるま菓子舗」と屋号が変わり、

映画を見た観客は「ん?」。

代わって東京・柴又商店街の帝釈天参道に

「とらや」の看板を掲げた土産物屋が出現、

下町人情劇にひと騒動が----。





“あやかり商法”に対抗


「くるま菓子舗」に屋号が変わって(映画)




「姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と・・・・」と、

映画ファンならずとも、目に耳になじんでいる

「男はつらいよ」。


長寿シリーズ映画としてギネスブックにも載り、

渥美清演じる寅さんは海外にも広くファンを持っている。


スクリーンの「とらや」は、寅のおじに当たる

車竜造(下條正巳)、つね(三崎千恵子)夫婦が、

手作りだんごを商う古びた商店。


旅から旅の寅が時折、帰ってきては羽を休める憩いの場

でもある。


昭和四十四年に始まった同シリーズには、必ず「とらや」

のシーンがあり、旅先で寅が「困ったことがあったら

葛飾・柴又の「とらや」に訪ねておいで」といっては

観客をホロリとさせる。


その主舞台の「とらや」が四十作目で

「くるま菓子舗」に屋号が変わり、

客との応対も当然、「ハイ、くるまやです」。


もともと「とらや」には特定のモデルはなく、一作から

全脚本を書いた山田洋次監督のオリジナル。

映画のお陰で柴又商店街にやって来る観光、参拝客は

年間二百万人にのぼり、いまや「とらやはどこ?」と

探し回るほどのモテモテぶり。


そんな中で昨年暮れ、柴又商店街に映画と同じ

「とらや」が正式に産まれた。帝釈天参道の中ほどの店。

長い間、土産物屋をしてきたS店が従来の屋号を改名

したのだ。


松竹によると、S店は「十年前、包装紙に「とらや」の

三文字を印刷、看板も屋号の後ろに「とらや」を

付け加えた。

そして今回、鉄骨造り四階建てに建て替えた際、

全面的に「とらや」になってしまった」。






一軒の独占に批判の声





昨年暮れ土産物屋「とらや」に改名(帝釈天参道)



テレビや映画の人気作品の“あやかり商法”は

少なくない。


柴又も例外ではなかったといえばそれまでだが

「男はつらいよ」の登場人物の多くが、金にはほとんど

縁のない人情家ばかり。


最近の日本人から失われつつある優しさ、ぬくもりが

同映画のテーマになっているだけに、山田監督は

「とらや」で書き込んだ今回の台本を撮影時に

「くるま菓子舗」と変更、「とらや」を画面から

消し去ってしまった。


松竹の方も、包装紙印刷以来、再三にわたって抗議して

きたのだが、かつて「男はつらいよ」ロケを、

このS店の軒先を借りてやったこともあってラチが

あかず、結局ズルズルと三十九作まできた経緯があった。


S店では「うちでロケをやったし、

客も「とらや」と認めている。

「くるま菓子舗」になっても、いまさらねえ・・・・」と

意に介さない表情。


間に立って困惑したのは地元商店街の神明会

(天宮慶久会長、六十店)。


S店が柴又の同業者とあって、表立って批判はしないが

「柴又の人間は、映画に描かれているような人情を

本当に持っていて、それが財産にもなっている。

そうした人情を大切にしようとするんだったら、映画の

お陰で繁盛したのは事実だし、「とらや」の看板を

出すのはまずい。

みんな内心ではそう思ってるんですが・・・・・」と寂しそう。


映画で有名になりすぎた「とらや」。

それを勝手に使用されても「著作権の問題もないし、

現在の法律では救済できない」

(芸能問題に詳しい大塚功男弁護士)という。


「寅次郎サラダ記念日」を見た方はご存知だろうが、

笠智衆ふんする御前様のセリフにも

近ごろは金もうけしか考えん人間がこの門前町

にも増えてきましたから、寅のような無欲な男と話して

いると、むしろホッと致します」というのがある。


「「とらや」は柴又の商店街のシンボル。

それを一軒が独占するのはよくない」と、山田監督は

言葉少なだが、二十年間、慣れ親しんだ「とらや」の屋号

をバッサリ切り捨てた心情はあえていうまでもなさそう。

映画の中から「柴又も住みづらくなっちまったよ」と、

寅さんの嘆きが聞こえてきそうなのだが・・・・・。



(写真の言葉より)


(右上)

イヨ!さくら。くるまやのみんなは達者か

41作目からはこんなせりふ?


(その下)


「くるま菓子舗」に変わった「とらや」ののれん

(40作目の「サラダ記念日」から)


(左上)

いまや映画のお陰で、はとバスも止まる柴又の帝釈天参道。右は「とらや」の看板を掲げた土産物屋


(その下)

独り歩きした「とらや」の看板も画面ではもう見られない

(38作目のキャンペーンから)



参道の散策 大和家さん→亀家さんへ

とても天気が良くなるという予報と

気温が25度まであがるという

あまりにも好条件な休日を迎えたため

本日は柴又へ行ってみることにした。


目的は以下の通りである。


①・・・新しく柴又の各所に建てられた「寅さんモニュメント」


②・・・第1作の撮影日


③・・・久々に大和家さんの天丼



①について



「寅さん記念館」の駐車場より歩いて行くと

直ぐ目にする事が出来る。



14箇所あるらしいのだが、残念ながら全部は発見できず。 

②と③について



先ずは昼時ということもあり

真直ぐに大和家さんに向かう。 

久々に大和家さんの天丼とのご対面である。 

本日は天丼の



変わらぬ美味さである!!!

サイコーの味に舌鼓を打ちながら

あっと言う間に完食。

大満足である。



そしてもうひとつの本題!

「第1作の柴又撮影日」


お忙しい時間帯だったため最後の最後

会計ついでの帰り掛けに

大和家さんの大旦那さんと

若旦那さんにお伺いしてみた。




「第1作で寅さんが纏を回して参道を歩いたシーンは

いつ撮影されたか覚えていらっしゃいますか?」


あまりにも唐突な私の質問である。


瞬間、ちょっと驚いていらっしゃったご様子だったが

そこは色んな「寅ファン」をお相手されてきた

百戦錬磨のお2人。

そんな私の不躾な質問にも

とても親身になったお答えを頂けた。



しかし、残念ながら正確な日付の確認は取れず。


でも、わざわざ奥の間から資料を持ってきて下さったり、

第1作での思い出のお話を色々とお伺いする事ができた。


感謝感激である。


大和家さんの

そして、柴又の温かさに触れることができた。


本当にありがとうございました。



そして大和家さんより

次に亀家さんをご紹介頂き、参道を題経寺へ向かって

歩いていく私なのであった。。。


「第1作なら亀家さんに写真があるから」


「うち(大和家)から聞いたと言えばいい」


何とも心強いお言葉である。



期待に胸膨らませ亀家さんに到着。 

亀家さんにも何度か立ち寄ったことはあるが

お話まではしたことは無い。



奥は食堂、店先で草だんごを販売されている。



出入り口には確かに第1作の写真が。


纏を回す寅さんの代役を

亀家さんのご主人が務めていらっしゃった写真。


話は以前どこかで聞いている。


渥美さんは全く纏を回せず

代わりに亀家さんのご主人が

寅さんの衣装を着て回していたのだ。


店内にそのお写真が飾られている。 

亀家さんは知る人ぞ知る

劇中の「とらや」のモデルになったお店。

映画でも予告編で一瞬お店が映る。


▼第5作予告編より 

映画当初は

山田監督や渥美さん等

とても良い関係を築いていらっしゃったとの事。



今日は亀家さんの女将さんにお会いする事ができた。 

唐突な私の訪問と、何の意図があるのか

全く分からない愚問に

とても親切に、そして丁寧なお答えを頂けた。


またしても感謝・感激である!!!!


だが残念ながら

やはり第1作の撮影日は正確にはわからず。


本来の目的は達成はできなかったが

それ以上に女将さんより

とてもとても貴重なお話を頂けた。


何とお話しすること約1時間!


こんな私に、とても貴重なお時間を、

そして何と草だんごとお茶までも頂戴してしまった。


涙、涙である。



以前にも私は亀家さんを少しご紹介している。 

フジテレビの「ザ・ノンフィクション」で

亀家さんを題材にした放送があったことを初めて知った。


http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2006/06-187.html

「男はつらいよ」の映画のヒットにより

帝釈天に訪れる人の数はどんどん増えていったそうだ。


当然それに伴って、色んなものをその忙しさに合わせなければいけない。

いわゆる設備投資的にお店のキャパを増やす。

お店はどんどん近代的に変化していった。


中でも「とらや」と同じ団子屋稼業を営むお店は

お客さんの数も相当多かったのではと想像する。


参道で団子屋さんとして代表的なお店は

「亀家」さん、「高木屋」さん、「とらや」さん、

そして「大和家」さんと思われる。


お店が大きくなれば当然経費も大きくなる。

成長していく企業の宿命は、業績が常に右肩上がりでなくてはならない。


映画「男はつらいよ」の全盛期は

異常な右肩上がりだったと思われる。


もちろん映画のヒットと共に、地元の方々の弛まぬ努力があったからこその

商売繁盛だったということは、柴又を訪れた方なら絶対理解できるはずである。



そして映画は、渥美さんの死と共に突然終わりを告げた。


あれから13年。


すっかり参道を訪れる客足は減ったという。


人が減れば売上は減っていく。

毎年、毎年、下がる売上に各店々は苦労したはずである。


まさに死活問題である。


今回お話が聞けた「亀家」さんも同じ。

寅さんに感謝しながらも、寅さんだけに頼るのではなく

今度は自分たちの力で再生をしていくことを目指した亀家さん。

その大役を担ったのは次男の純哉さん。

父、英二郎さんのご意思をしっかりと受け継ぎ

『心のふるさと』、『添加物なしの草だんご』

この2つのこだわりを持って今も奮闘中である。


純哉さんは現在寅さんのように全国を飛び回っているという。

地方のデパートの催事コーナーからまたまた地方のデパートへ。

全く柴又に帰ることがない月もあるという。

柴又から飛び出し、全国へと目を向け新しい境地へと進んでいるのである。


この発想、一瞬頭に過ぎったとしてもなかなか実行できるものではない。

防腐剤を入れないお団子を瞬間冷凍する発想からそれは始まり

段々とそのエリアを拡大していったと思われるが

そうそう長く続けられることではないと思う。


地方に出られてもう5年になるという。

かなりの体力と強い意志、そして大きな信念がなければできないと思う。



女将さんのお話を聞きながら、ふと

第21作『~寅次郎わが道をゆく』を思い出した。


ちょっとそのシーンをご紹介。

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もし俺がこのとらやを任されたらどんな風にしてゆくか・・・


先ず最初に今の時代は店に座ったままだんごを買いに来る客を待っている

ようではダメなんじゃないかな。


もっと積極的に・・・

例えば社長のところでビラを印刷してこれを新聞に折り込み各家庭に配る。

あとは月に一度の値引きセール。だんごを半値にしちゃう。

全然儲けはないよ。

しかしその事によってとらやのお団子はこんなに美味しかったのかな~ということを

行き渡らせる。


そうやってどんどん客が増えていく。するとこの店が狭くなるな。

そこで思い切ってこの店をぶっ壊す!

その後に鉄筋コンクリートのビルをブッ建てる。

1階が店、2階がお座敷、3階が老夫婦の隠居所だ。

その頃裏の工場はつぶれているから労働者ごと買い取って

これを団子工場にする。

もう手でこんなクチャクチャクチャっと団子なんてやんない。

これからはオートメーション。

機械の穴からコトン、ポロポロ、コトン、ポロポロ

もちろん汚い年寄りなんか店におかない。

若い新鮮な乙女が6人ぐらい。

揃いの浴衣をピシッと着て

いらっしゃいませ、またどうぞ。


支店も増やす、北は北海道、南は沖縄まで

とらやチェーンがズラ~っと並ぶ。

もちろんテレビのコマーシャルにも金はかけますよ。


草だんごでお馴染みのとらやが提供の

浪曲劇場。

ヨ~♪泣くな~よしよし~♪ネンネ~しな~

坊やの母ちゃんどこ行ったァ♪

あ、うん?


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結局最後は寅さん節になり、いつものような大騒動になってしまう。



でもこの寅さんの言葉には大切なことも含まれていると思う。


このシーンを思い出したことで

ひょっとしたらその信念の後押しにちょっとでも力を貸したのは、

もしかしたら寅さんかもしれない、と思う私なのであった。



フジテレビの番組として取り上げられた亀家さん親子の物語。

http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2006/06-187.html

1年間取材を受け「ザ・ノンフィクション」という番組となり

2005年に放送されたその続編が今年放送予定。

何としても観てみたいと思う。


現在の世の中の不況や、英二郎さんのご病気など

亀家さんを取り巻く環境は更に厳しくなってきているという。


最近は柴又といえば高木屋さんばかりが紹介されるが

亀家さんももっともっと注目されるよう

私の力など無いに等しいものではあるが私も尽力していきたいと思う。


さて、今回亀家さんの女将さんに

1時間以上も貴重なお時間を頂き

色んなお話をお伺いしたわけだが

今回お聞きしたお話をご紹介したい。


先ずは映画の撮影でのお話。

第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」でタコ社長の娘あけみが

花嫁衣裳で参道を歩くシーンがある。 

通常出演者の控え室等は高木屋さんなのだが

この回のあけみは亀家さんのお座敷を利用したという。


お座敷を眺めていると、その時の情景が想像できる。

事実が分かるとそのなにげない風景が特別に見えてくる。

柴又はそんな想像がいっぱい出来る。

だからこそ色んな事を知りたいし、やめられない。

またまた至福の場所がひとつわかった。幸せである。



続いては亀家さんのメニューにある名物「寅さんセット」。

これは元々松竹の担当の方が作ってみてはどうか

ということで考案されたという。

発売当時はカツを寅さんの顔に似せてわざわざ

四角にしていたという。

でもそれは手間が掛かり結構大変な作業だったそうだ。

時間の経過と共にカツは普通の形になったそうだ。 

今回は大和家さんで天丼を食べたばかりだったので

次回頂きたいと思う。




最後はもちろん亀家さんのお団子のお話。

お土産にお団子を購入。 

亀家さんの草だんごは非常に優しい感じがする。

添加物が一切入っていないこだわりのお団子である。

あんこも甘すぎず、丁度良い。

こしあんとつぶあんが選べるのもうれしい。 

是非ご賞味あれ!


前回ご紹介した

亀家さんの催事コーナー予定は

亀家さんのHPよりご確認頂きたい。 

ザ・ノンフィクション    続 柴又草だんご頑固物語

2009/7/8

「亀家さん-7-」  亀家さん

7月5日 日曜日


フジテレビで放送された


ザ ノンフィクション



タイトルは


続 柴又草だんご頑固物語



舞台となったのはご存知、柴又帝釈天参道にある老舗

『亀家老舗』さん。




.


今回は続編としてのテレビ放映である。



残念ながら私は最初の放送は観ていない。



今回の放送が初めてである。




その放送の一部をご紹介したい。



先ずは放送開始の約5分間。番組の「つかみ」の部分である。






語り:草村 礼子



(番組のタイトル曲が流れる)


(活気のある帝釈天参道)


怒ってんだよ。

怒るのが商売みたいなもんだよ。 

お父さんと私は40年連れ添った夫婦。

喧嘩ばかりしてきました。


ウチは柴又にある柴又にある草だんご屋。

今日まで良く頑張ってこれたとつくづく思います。 


帝釈天に一番近いだんご屋、「亀家本舗」。 

創業80年の老舗です。

映画「男はつらいよ」で寅さんのだんご屋のモデルにもなりました。

主人の岩崎英二郎です。


病気ひとつしたことの無いかなりの頑固者でした。

店の自慢はお父さんがこだわる草だんご。

添加物が入っていないので

あくる日には硬くなってしまいます。 

「レンゲソウでいいんです。だんごはレンゲソウでいいんです。

レンゲソウが似合うものなんだよね。

だから、ホントに化粧して都心に行って売りたいという気は無いんですよね。」 

ところが店は赤字。寅さん映画が終わって柴又に人が来なくなったんです。 

しかも頼りの息子は嫁と離婚。


働き者の若女将を失ってしまいました。

そんな矢先、亀家最大の危機が。


大黒柱のお父さんが倒れてしまったのです。


「俺なんか死んじゃった方がいいよね。そういう存在なら」 

全てが私の肩に圧し掛かってきました。


私もとうとうダウン。



亀家創業以来のピンチです。


一向に回復しない身体。


度重なる難題。


お父さんは遂に部屋に引きこもってしまいます。


「お父さんの気持ち一番分かるのは私なんだから

それさ・・・をみてあげられなかったからね」


そして




「すごいじゃないね、こういうのってよぉ

ダメだよな、ホントにすごいよね。」 

人前で涙を見せた事が無かったお父さんが初めて泣いたんです。 

予想外の出来ことが私たち夫婦を待っていました。 

お父さんと私がず~っと守り続けた

店と草だんご。 

この先どうなってしまうのでしょう。


柴又草だんご頑固物語。 

今回はお父さんと私の物語です。 

語り:草村 礼子


(のどかな江戸川 寅さんの音楽が流れ矢切の渡しに乗って川を渡っている) 

江戸川がゆったりと流れる東京の東のはずれ


葛飾柴又


(矢切の渡し)

渡し舟が今も残っています 

(帝釈天題経寺山門)

ここでは400年も昔から帝釈天があつく信仰されてきました。 

そう、映画「男はつらいよ」の舞台として

全国に知られた観光地でもあるのです




(混雑する帝釈天参道、多くの人出で賑わう亀家さん店舗)

帝釈天の山門から一番近くにあるだんご屋「亀家本舗」


(若旦那 純哉さんの店先での言葉)

「柔軟材・保存料、添加物一切入れていないです。」


寅さんのだんご屋のモデルにもなった老舗です


(ご主人 社長 岩崎英二郎さんが映る 65歳)

店の自慢はお父さんが頑固に守り続けてきた


こだわりの草だんご



(活気のあるお店、元気な呼び込みの風景)

「はい、いらっしゃいませ、いかがですか~」 

亀家の草だんごは

香りのいいよもぎの新芽と

こしの強い最高級のうるち米の粉で作ります 

(おだんごの作られる風景が映る)

あんこは十勝産の小豆とざらめをを使います


添加物は一切加えない 自然のおいしさ 

それが亀家のこだわりの草だんごです



(社長 英二郎さんの言葉)

レンゲソウでいいんです。

だんごはレンゲソウでいいんです。

気にする人は気にするけど、気にしない人はみんな踏み潰して

掛け相手も遊んでったりしている

そういう場所にあるんだよね。 

だからそれと同じようにそんなに皆に注目されなくてもいい。

ただ、草だんごというものは葛飾の外れに行くと売ってるよ。


それであそこ行ったらあれ食べてみたいな

あるがままんまでね、

これが草だんごなんだよっていうことでいいと思うんだな。




「美味しいんだ~、これがまたぁ」

「ははは!」

「入るとこが違うんだまたぁ」

「ははは!!」

「ははははは!!!」 

「都会とちょっと違うとこがあるでしょ」

(うなずく女性客。美味しそうにお団子をほおばっている。)


「ね~、だから お父ちゃんとお母ちゃんのこと

きっとね思い出して。」


(若い女性客)

「食べちゃった~」


柴又に遊びにきたら、柴又らしさを感じて欲しい

柴又の心を感じて欲しい

それが頑固おやじ、英二郎の変わらぬ思いなんです



亀家は創業80年の老舗 

お父さんは3代目の主です



(写真 1966年 養子縁組) 

実は、亀家の先代夫婦に子どもはできませんでした

そこでお父さんが養子として入ったんです

英二郎、23才の時でした


その3年後に始まったのが寅さんの映画、「男はつらいよ」

映画のお陰で柴又は全国に知られる観光地になりました


私の自慢はうちのお父さんが渥美さんに纏の振り方を教えたこと


柴又が活気にあふれていたいい時代

亀家も大繁盛しました



その寅さん映画が始まった年です

お父さんが私を嫁に迎えてくれたのは 

お父さん私は同じ横浜の生まれで

中学では同級生 

(横浜市立蒔田(まいた)中学)


クラスで一、二番を争うライバルでした 

恋人だ何てその時代は堂々と言えなかった


でもずっとグループ交際を続けていたんです


私たちの結婚、実は亀家の先代夫婦からは反対されました

私の実家が商売人じゃなかったからです

そのために私、悩みました



(江戸川の川辺で女将さんの和子さんが涙ぐみながら語る) 


「うちの主人はね~、やっぱし養子にきたから、俺はお前のことは

例えばおふくろと喧嘩してもお前の味方にはつけないよ言われたの。


それはすごくやっぱしあの~、今のおばあちゃんとね

やっぱ嫁姑だからいっぱい喧嘩しましたよね。


で、いっつも私の方に立ってくれないんですよ。

でそれが凄く悲しくてね

帝釈天行って 夜や朝早く行ったりなんかしてね

よくず~っと考えててね。


な~んでこんなとこ来ちゃったんだろうな~って思うとき

いっぱいありましたよ。


でもね、負けちゃいけないと思って。(涙笑い)



(使い込んだ畳の和室)

結婚しても随分肩身の狭い思いをしました

私たちの部屋は3階の一番北側

5畳半の和室

窓から見える帝釈天が救いでした




亀家に嫁いで40年わき目も振らず働いてきました



(女将さんが団体のお客様をご案内している)

(店内でおだんごを振舞っている 皆楽しそうに歓談) 

今では柴又は第2の故郷

お父さんの草だんごを一人でも多くの人に食べてもらうのが

私の生きがいなんです 

「ホントにわかってもらいたいのね

みんなに このお団子の美味しさっていうのをね。

こころ込めて作ってるんだからね。」


(柴又駅 風景)

1995年「男はつらいよ」シリーズ 制作終了



渥美さんが亡くなり寅さんの映画が打ち切りになると

柴又はすっかり活気を失ってしまいました


(累積赤字 数千万円)お客さんもがたんと減り亀家は赤字

毎年の赤字が積もり積もって数千万にもなってしまいました



「社長は今何をされてるんですか?」



「無い金を搾リ出して 給料払うんですよ。」



厳しい経営

こんな状態が続けば店はいつ潰れてもおかしくありません


(厳しい表情で電卓をたたく英二郎さん)お父さん、決断を迫られていました 

「あと何年持つかという状況だよね

今の状況であれば。」


「これからは 責任逃れみたいだけど

せがれに委ねていかなきゃならないけど

だからこそ 何年か前に 自分で代表権を

譲ってもいいと思った時期があったんだけど

こういう流れの中で

代表権を彼がもらったって喜ぶわけないし

資金繰りなんかでも大変さだけが残る。

そんな社長じゃ、譲ってもらっても嬉しくないもんな。」



養子として亀家を受け継いだお父さん

少しでも店を大きくして息子に渡したい


それが親心だったのだけど・・・



お父さん、お店の再建を息子の純哉に任せてみる事にしたんです


(お座敷に純哉さんと英二郎さん)


(英二郎さん)

「こんど迎える正月ね

とりあえず正月をさ

お前の仕切りで 売る上げをね

去年を10とすれば 12、3


この正月、あと1ヶ月あるからね

考えてやってもらいたいなと。」


(若旦那の純哉さん)

「努力してみます。」


「そうだね、がんばって・・・」



(工場で作業をしている)

純哉が引っ張り出してきたのは

昔使われていたというこの風変わりにな道具


これで団子を作るって言うんだけど

こんなモノが店を救う切り札になんのかしら・・・


「女将さんこれは見たことがある?」


「それがねぇ、あの~初めて見たんですよ、私。

ね、これ持って来たからね、何これっ~?て言ってね

だから、こういうふうにやるんだよ~って言って

いやぁ~私気が付かなかったなぁ~来た時こんなのがあったの。


・・・ね、片付けてたら出てきたんだよね。」


(純哉さん)

「そう!何年前かな~、随分前に工場を大掃除した時に

工場の屋根裏じゃないけどホントの奥からこれが出てきて・・・」 

「これ何するものなのか

ここにお団子流すンかなっと」


ははは(笑)



おしまい。