笑う私。
目を凝らせば速度制限の標識が見えるぐらいの時間帯にふらふらと家を出てみる。
歩くのが遅いおじさんのうしろにぴったりとついていく。曲がり角で追い越して、松屋のそれは重たい扉を引く。「復刻」と書かれていた元祖ネギ塩厚切り豚カルビ丼を頼む。濁ったコップに水を注いで席に着いて、平野紗季子のポッドキャスト『味な副音声』を聴く。そういえばこの松屋に来た時、いつもラジオやポッドキャストを聴いている。ラジオを聴くために松屋に来ていると言ってもいい。窓越しに見える駐車場に停まっている車のナンバーを足したり引いたりしていたら丼が出来上がる。脂がぬらりと光る豚肉。その上のネギは芝生のよう。しょっぱさは濁ったコップの水を極上にして、ごくごくともりもりと。豚肉にちょうどいい量のネギを乗せて、落ちないようにして口に運ぶ。ガツンとした単色の味を米の白に描画する。あのナンバーの車はゆっくりと駐車場から出ていく。
この松屋には何十回と来ているわけではないけれど、大学に入ってすぐに同級生たちと来たり、眠らずに迎えた早朝に一人で来たり、そんな記憶がまだ輪郭をとどめている。初々しかったあの頃は、そんなに面白くないことにも笑えていた気がする。面白くないことには笑わない方がいいなんて強がってみた日から今日までずっと、この調子。でももうあの頃には戻れない。この松屋で誰かと笑うことはない。味噌汁を飲み干して、残った少しだけの水も流し込む。丼ぶりの上に箸で橋を架けて、お盆をもって立ち上がる。箸が転がってお盆の上に二回音を立てて落ちる。少しだけ笑ってしまった。本当はラジオの内容に笑ったのだけど、でも箸が転がって落ちたことに笑ったってことにしておいた。