連続研究会「明治期における人間観と世界観」
第3回「梵歴運動史の研究」

連続研究会「明治期における人間観と世界観」
第3回「梵歴運動史の研究 ―19世紀の日本における仏教科学の展開―」

7月9日に岡田正彦客員研究員(天理大学教授)を迎え、東洋大学白山キャンパス5号館5309教室にて、「梵暦運動史の研究―19世紀の日本における仏教科学の展開―」と題された研究会が開催された。この研究会は、「明治期における人間観と世界観」をテーマとした連続研究会の一つとして開催されたものである。

幕末から明治時代にかけて、仏教の経典に現れる宇宙観に合致した天文学が展開された。それは、普門円通(1754-1834)を開祖とする運動であり、地球球体説や天動説に対抗し、須弥山を中心とした平面的な世界に基づくものであった。この運動は、暦を作成する「梵暦道」、占星術を行う「宿曜道」、薬などを作成する「梵医道」の三分野にわかれるような、仏教科学を展開する運動であった。

梵暦運動は、開祖円通の没後、円通の理論を科学的に修正していく「同四時派」と、円通の理論を絶対視する「異四時派」に分かれた。同四時派は、自らの理論を視覚的に実証するために、須弥山儀と呼ばれる宇宙儀を盛んに作成した。この須弥山儀は、プラネタリウムのもととなった「オーラリー(orrery:太陽系儀)」に類する精密機械であり、年月日や時間、その日時の太陽と月の軌道を表示するものであった。この須弥山儀の作成には、後に東芝を興す田中久重が大きな役割を果たしていた。

梵暦運動の担い手たちは、天文観測を正確に行い、暦を作り、大衆に頒布していった。梵暦の結社の活動は、明治5年に太陽暦が国の暦とされた後も、暦の配布を許可されるなど、大衆に広く普及したものであった。

このような梵暦運動は、西洋の近代科学に対抗する形で始まった「反近代主義」的な運動として始まったが、天文観測を正確に行い、精密な機械や暦を生み出していった科学的な運動でもあった。同時に、民衆に広く受け入れられ、広いすそ野をもつ運動でもあった。幕末から明治期にかけての西洋近代科学の流入に対して、伝統的な宇宙観に基づきながら、科学的な態度で正確な天文学が構築され、広く普及していたのである。その後の近代化政策の中で忘却に追いやられてしまった明治期の世界観に光が当てられたことが、この研究会の大きな成果であった。