第2ユニット WEB国際講演会(2011年)

ポスト福島の哲学

平成23年12月17日18時より、WEB国際講演会「ポスト福島の哲学 知の巨匠に尋ねる」が行われた。今回の講演会ではインターネットを通じてフランス(ストラスブール大学)、ドイツ(ミュンヘン大学)、日本(東洋大学)を結び、フランスからジャン=リュック・ナンシー氏がフランス語で、ドイツからベルンハルト・ヴァルデンフェルス氏がドイツ語で講演を行った。日本では東洋大学白山キャンパス井上円了ホールを会場とし、同時通訳によって聴衆は日本語、フランス語、ドイツ語の中から選択して聴講することができた。日本からは山口一郎研究員と西谷修氏(東京外国語大学大学院教授)がコメンテーターとして参加、村上勝三センター長の総合司会のもと講演会は進行した。

ナンシー氏は原子力のみに焦点を絞らず、技術化された世界の相互依存的な全体を考えるべきだと指摘した。そうした技術化された世界には量の質への転換を大原則とした論理があり、大量の数を持つものが法となる。大量の数が相互作用する中では価値や意味が雲散霧消してしまい、自然や技術の区別もつかなくなってしまう。ナンシー氏はそうした世界から抜け出さなければならないと考える。

フクシマ、つまり3月11日はあらゆる現在を禁じ、そのことによって未来への見通しが崩壊してしまった。そのため私たちは他の未来へと働きかけなければならない。もちろん現在のもとで未来に働きかけるのだが、ここで現在とは次々と立ち現れる時間ではなく、特異的なものの敬意へと開かれた現在である。技術化された世界ではあらゆる価値が交換・転換可能性によって規定されており、マルクスが貨幣について言うように「一般的等価物」として計算される。こうした現在の等価性ではなく、特異性の非等価性、つまり諸々の人格、瞬間、場所、振る舞いなどの非等価性へと注意を向けることが目指される。

西谷氏は「未来への見通し、投企」の影から脱して「現在」を志向することの必要性については全面的に同意しながらも、核技術が人間にとっての「未来」のあり方を変え、そうした未来を考えることがナンシー氏の言う「現在」を思考することなのではないかという疑問を投げかけた。これに対しナンシー氏は、人類の人類に対する関係が変わりつつあり、既に私たちの技術に対する関係は変わり始めていることを指摘し、変化は複数形で起きるだろうと応えた。フクシマはこうした何かが始まりつつあることのサインである。

ヴァルデンフェルス氏の講演は西洋哲学の始まりにまで遡る三つの動機である生計、実践、倫理の観点に問題を絞った。生計という観点から、ヴァルデンフェルス氏は原子産業が技術的・経済的力を発揮するだけでなく、国民の生活を膨大かつ長期にわたるリスクにさらしていることから、あらゆる経済が非経済性の余剰を含んでしまっているのではないかという問いを提示した。実践については、技術の威力が世紀を重ねるにつれて膨大になり、行為のプロセスも地球規模に拡大しリスクが算定不可能なものになっていることが明らかにされ、それに伴い責任の概念も拡張されるべきで、私たちが望まなくても効果をもつものにする、そうしたことに対しても責任があることが指摘された。また倫理に関しては、顔を見合わせて出会っている他者だけでなく将来の世代の連鎖の成員としての他者を、そして諸世代の連鎖の中で形式をもつ未来についての考えが提示された。この未来は私たちの計画や期待に基づくものではなく、むしろ自然が関与している。自然を保護することは私たちが他人に負っている敬意の一部であると主張した。 

山口研究員からは生活世界の数学化が生活世界をリスクにさらすことなく、生活世界が哲学へと統合する可能性はないのかという質問が挙げられた。これに対して、ヴァルデンフェルス氏は数値化による価値の付与ではなく、構造へと戻ることで経済や人間などのすべてが生活世界の中に統合されることを目指すフッサールの考えを提示した。

他、ブッフハイム氏(ミュンヘン大学教授)も議論に参加し、フランスとドイツそれぞれ特有の、また日本からは多様な意見が盛んに提示された。そうして、フクシマ後を生きざるをえない私たちが世界について、あるいは技術についてどのように向き合っていくのか、さらには技術に巻き込まれている人間とはいかなるものなのか、様々な課題が浮き彫りにされた。司会の村上センター長より、「ポスト福島」がこれから先も続く問題であり、皆様とともに問い続けながら未来を、また現在を切り開くことに通じるよう努めていくことが表明され、講演会を締めくくられた。

なお、発表の模様はWEB国際講演会「ポスト福島の哲学」から見ることができる。