「格差」は必要か

<「意図的な格差」と「意図せざる格差」>

(ねこ)

ネットの投稿を見ると、社会格差が問題だという指摘がある一方で、社会格差をなくすのは共産主義者の考えで、旧ソビエト連邦などのように、平等社会は社会の活力をなくす、などの意見も根強いにゃ。でも、社会格差の結果生まれたワーキングプアの存在が社会の活力を高めているとは到底思えないのにゃ。社会格差は必要なのかにゃ?

(じいちゃん)

ほっほっほ、そうじゃな、こういう問題もなぜか「両極端」な話が多い。なぜ世間の人間は両極に分かれて争うのが好きなのじゃろう?ワシに言わせれば頭が固すぎじゃ。なんでもかんでも平等ありきはおかしいが、だからと言って、格差をなすがままに受け入れる姿勢も奴隷の詭弁に過ぎん。重要なのは、社会全体の生産性や進歩を最大化するために、格差とはどうあるべきかを考える事じゃ。

(ねこ)

じゃあ格差は必要なのにゃ?

(じいちゃん)

まあまあ、焦るでない。「格差」といっても種類がある。まず大きな違いとして「意図的な格差」と「意図せざる格差」がある。

(ねこ)

意図的か、意図的じゃないかってどういうことにゃ?

(じいちゃん)

そうじゃな、意図的な格差とは、たとえば「賃金格差」じゃな。これはたとえば企業内で成績が良い社員には高い給料を払い、成績のわるい社員には低い給料しか払わない、とかいう事じゃな。これは企業として意図的におこなっておる。企業の業績を高める目的で給与体系として作られた差じゃ。これは社会の各部分部分での出来事じゃから、ミクロ的な視点から見た格差と言えるじゃろう。しかし逆にマクロ的視点から見た場合、つまり社会全体で見た場合はどうじゃろう。社会全体で貧富の格差が広がることは、社会政策として意図的にやっておることではない。もし、意図的に貧富の差を押し広げて貧困層を生み出しているとしたら、ほとんど犯罪じゃ。つまり、格差といっても、企業などが意図的に賃金に差をつける事と、社会に格差が生まれる事を、きちんと分けて考えねばならん。

(ねこ)

確かにそうにゃ。会社が社員の給与に差をつけることは、まあ理解できるにゃ。しかし、社会全体の貧富の格差が広がってゆくのは、納得いかないにゃ。でも、社会全体として「格差」が大きいほうが、社会に活力があって、経済成長率が高いと考える人もいるらしいにゃ。

(じいちゃん)

ところが逆に、社会全体の「格差の大きい国」は経済成長率が低い傾向にある、というレポートがIMFから出されたらしい。それぞれの国には複雑な事情があるから当然誤差はあるじゃろうが、しかし、少なくともこのレポートから言えることは「格差が大きい方が経済成長率が高いとはいえない」という事じゃ。

(ねこ)

なるほど、やっぱり社会的な格差が必要とは言えないにゃ。だったら格差のない方が良いに決まってるのにゃ。じゃあ、個別の格差、ミクロ的な格差はどうなのかにゃ。

(じいちゃん)

今回取り上げるのは「所得格差」に関することじゃ。所得にも大きく二種類あり、一つは「労働報酬」によるもの、もう一つは資産運用つまり「不労所得(利子所得)」によるものじゃ。

(ねこ)

めんどくさいにゃ。でも、全部ごちゃまぜにして短絡的に「格差が悪い、良い」とは言えないにゃ。

<成果主義的な報酬の格差は正しいのか>

(じいちゃん)

そうじゃな。さて、労働報酬による格差を考えてみようかの。まずサラリーマンの場合だが、これは人事考課における「成果主義制度」と関係がある。成果主義とは「会社に貢献した成果に応じて給与が増減する」という給与体系じゃ。簡単に言えば「会社をたくさん儲けさせた社員にたくさん給料を払います」というしくみじゃ。それに対して旧来から日本では「年功序列制度」という、会社に在籍した年数や年齢によって給料を決める仕組みがある。欧米の個人主義的価値観の影響から、最近は成果主義的な考えが日本でも主流となりつつあり、これが格差是認の一つの背景にあると思われるのじゃ。ところでネコは、成果主義と年功序列のどっちがいいと思う?

(ねこ)

う~ん、年齢が高いというだけで多くの給料をもらうのはおかしいにゃ。会社にたくさんカネをもたらした人がたくさん給料をもらうのが正しいにゃ。

(じいちゃん)

そうじゃな。会社にたくさんカネをもたらした人がたくさん給料をもらう。それは企業の立場から言えば当然のことじゃろう。じゃが社会的に見れば別の考え方もある。つまり公共の福祉に反するような事をして、会社に莫大なカネをもたらした場合、それが高く評価されて高い給与を得るというケースもあり得るじゃろ。社会的に見ればそれが正しいとは言えん。

じゃから、ワシは「労働報酬は社会に有益な仕事をした度合いに応じて支払われるべき」と考えておる。たとえば、新技術や新製品を開発して人々の生活を改善した、あるいはより多くの財を生産して人々を豊かにした、あるいはそれらの活動を支援した、などじゃ。成果主義の本質とは「会社にカネをどれほどもたらしたか」ではなく、「社会にどれほど貢献したか」で評価されるべきじゃと思う。

もちろん社会への貢献度を客観的に評価するのは非常に難しい。じゃから基本的には会社の売り上げ増に貢献した、というような売り上げによる評価軸は避けられん。実際に給料を支払うのは企業なわけだし、市場主義経済の評価はカネに頼らざるを得ないのは事実じゃ。

じゃが成果主義を考えるとき、「企業側の立場」と「社会的な立場」によりニュアンスが大きく異なることを意識する必要があるはずじゃ。極端に言えば、会社に莫大な利益をもたらした人物が、社会的には最低の事をしていた場合、その人物が成果主義の名目で高額な報酬を受け取ることが果たして正義と言えるのじゃろうか。そして社員が会社への貢献度を通じて社会的に評価される、ということは、その会社が社会に貢献しているかどうかも重要となる。たとえばブラック企業に貢献することは、果たして素晴らしい事なのじゃろうか?

<格差とモチベーション>

(ねこ)

そうにゃ、多くの人々の生活を改善して社会全体に幸福をもたらした人なら、高額の報酬を得ても誰も文句はないにゃ。そういう格差ならむしろ歓迎するのにゃ。ところで、格差を容認する人の話として、旧ソビエトのような共産主義の国では、働いても働かなくても給料が同じだからみんな働くのを止めてしまった、それで国が崩壊したというにゃ。格差が無いと人は働かなくなるのかにゃ?

(じいちゃん)

そうじゃな、そういう話はよく聞く。確かにそういう一面が無いとは言えんじゃろう。しかし人間は金銭や金銭がもたらす物質的な報酬のみによって動機づけられているわけでないことは、古くから指摘されておる通りじゃ。格差がなかったとしても、やりがい、生き甲斐、あるいは名誉や他者からの評価といった動機によって動機づけられるのじゃよ。

しかも、技術革新により生産性は年々増加しており、労働力は過剰気味じゃ。つまり、今後、ますます生産技術が進歩すれば、ますます労働力は余るようになる。つまり「働きたくても働けない」状態となる。怠けるのとは別の意味で働けない人が増えるじゃろう。そういう理由で生じる格差は、働く動機とは関係ない。

(ねこ)

じゃあ、格差はなくせばよいにゃ。高額所得者からどんどん税金を取るにゃ。

(じいちゃん)

そうでもないぞ。やはり「社会への貢献度」に応じて高い報酬が得られる仕組みのあった方が、動機づけになることは否定できんじゃろ。そのようにして、社会に貢献してもらった方が公共の福祉に役立つというものじゃ。もちろん格差にも限度がある。欧米企業のCEOなどのように、何億円という年収を得るのが良い仕組みとは言えん。そこまでしなくとも、十分に動機づけは可能なはずじゃ。ただし、資本主義の社会では、「人材はカネで引き抜く」のが常識と化しておるから困ったものじゃ。日本の技術者もカネで中国や韓国の企業に引き抜かれておる、嘆かわしい事じゃ。

(ねこ)

じゃあ、格差があっても問題ないのかにゃ?

(じいちゃん)

そうではない。差があっても、そこにはみんなが納得する妥当性がなければならない。差がありすぎてもまずい。そうでなければ社会は安定しないし、逆に活力も失われるのじゃ。差があっても、社会の所得全体が底上がっておれば良いのじゃが、それは現実には難しい。だから格差社会には「貧困層」が生まれる。ワーキングプアのような人たちは「働いても働いても暮らしが楽にならない」のだから、やがて社会に強烈な不満を抱くようになるじゃろう。これは衝動殺人などの犯罪や人種差別などの反社会的行動の温床となる。そして、働いても生活が向上しないとわかると、人は働かなくなり、社会の活力が低下する。どうせ買えないからといって購買欲が低下し、車も家も売れなくなり、デフレが進行する。

(ねこ)

ふ~ん、じゃあ、なんでソビエトの人は働かなかったの?

(じいちゃん)

そうじゃな、ワシが思うにはこうじゃ。働いても働かなくても「給料が同じ」だから働かないのではない。働いても働かなくても「生活が向上しない」から働かないのじゃ。一部に怠け者が居たとしても、自分が働いて自分の生活が向上するとわかっているなら、そんな怠け者は無視して働くはずじゃ。ところがいくら働いても、ちっとも生活が良くならないなら、誰も働く気が無くなる。差があるなしの問題ではない。自分の生活が良くならないなら、誰が喜んで働くじゃろうか?結果に対する期待が動機づけとなるのじゃ。

ではソビエトの労働者は、なぜ働いても働いても豊かにならなかったのか?それは共産主義とは名ばかりの「搾取」が行われていたからじゃ。赤い貴族と呼ばれた「共産党員」に富が吸い取られていた。しかも、富を生み出すことが無い「軍部」が巨大化し、そこに富が吸い取られていた。これでは労働者がいくら働いても豊かになるはずがない。ほとんど奴隷じゃな。そうした構造が長期化すれば、人間が無気力になるのは当然じゃ。

(ねこ)

でも最初から無気力で怠け者の集団だったらどうするにゃ?

(じいちゃん)

そんなことはあり得んと思うが、しかし動機づけのためには教育も重要じゃろう。社会への貢献の尊さを学校でしっかり教育する事じゃ。社会に貢献する人が名誉を得る。賞賛を浴びる。そういう仕組みを社会に組み込めば、人は金銭欲以外の報酬で動くようになる。そして愛国心を高める事も重要じゃ。愛国心は諸外国との競争意識を生み出し、それも動機づけとなる。オリンピックなどまさにそうじゃろう。また、日本の技術を中国や韓国にカネで売るような守銭奴を防ぐにも愛国心は有効じゃ。しかし、格差がありすぎると逆に人はカネで動くようになる。貧しさに耐えかねて、国を売る人が出てもおかしくない。話がそれたが、まあそんな風に、モチベーションを高める動機を教育で育てるのじゃ。

(ねこ)

なるほどにゃ~、結局のところ、どうやってモチベーションを高めるか、ということにゃ。

(じいちゃん)

もちろん、ここで説明した格差は「意図した格差」の事じゃ。つまり仕組みの一部として意図して格差を容認するものじゃ。これは格差というよりむしろ「働きに応じた分配」と言った方がふさわしいじゃろ。しかし、現在の社会問題となっている格差は「意図せざる格差」じゃ。意図していないにもかかわらず、社会格差が生まれてしまった。このような格差は容認されるべきものではないじゃろう。意図的か、意図的ではないか、これは大きな違いじゃ。

<投機による報酬も成果か?~成果ではなく「しくみ」だけでカネが懐に転がり込む>

(ねこ)

ところで、不労所得の格差はどうなのかにゃ。

(じいちゃん)

こいつは問題じゃな。貯蓄がどのように運用されるかと言えば、投資じゃ。投資はおカネを利用して資源の最適配分を行う行為で、その成功が資本主義の社会では新たな付加価値を生む原動力となっている点は否定できない。つまり、投資は社会に貢献しているわけじゃ。しかし、実際に投資を行う企業とおカネを保有する人は別という場合が多い。銀行や証券会社などがそうじゃ。銀行や証券会社に働く人が労働報酬として給料をもらうのは当然で、社会に対する貢献度が高い企業に融資して、より多くの付加価値を生み出すことを支援したなら、それは高い報酬を得ても良いだろう。

じゃが、おカネを持っている人は「金利」あるいは「配当」という形で所得を得る。ある意味「おカネを持っている」というだけで所得を得る「不労所得」は、そのおカネを持っている人が付加価値を生み出したわけではない。おカネを持っているだけで、おカネが増えるのじゃ。しかも投資ではなくマネーゲームでおカネを増やすことが近年のトレンドじゃ。社会的に何ら付加価値を生み出さなくともマネーゲームでおカネが増える。一方でおカネを持っていない人は、当然おカネは増えない。そして「金利」とは「率」であるため、より多くのおカネを持つ人は、より多くのおカネを得るので、より急速に資産が増加する事になる。これが格差につながってゆく。さて、この格差にはどのような妥当性があるじゃろうか?

(ねこ)

そうにゃ、裕福な人がますます裕福になるのは、貧乏人のやっかみとかで済まされる事じゃなく、何か世の中の仕組みそのものに問題がある気がするにゃ。

(じいちゃん)

そうじゃな。問題は「仕組み」じゃ。本当なら労働して本人が生み出した付加価値や、社会への貢献度に応じて報酬が支払われて然るべきだと思うのじゃが、実際にはそうではない。「おカネを吸い上げる仕組み」を作り出し、その結果としておカネを得ているのじゃ。対価としてのおカネではなく、仕組みを利用しておカネを得ているのじゃ。その典型が「マネーゲーム」じゃ。不動産投機や株式投機などは付加価値を生み出しておるわけではない。じゃが、値上がりするだけで莫大な売買差益を得る。じゃからトレーダーが巨万の報酬を得ているわけじゃ。そこに「対価としての報酬」と「仕組みとしての報酬」の大きな違いがある。

そういう仕組みなんだから仕方ないだろ、という人もいるが、人間の作り出した仕組みに「仕方がない」という理由はありえない。つまり問題を解決するにはこの仕組みを変える必要があるということじゃ。

(ねこ)

そうなのにゃ、対価としての報酬なら誰も不満はないのにゃ。でも仕組みとしての報酬は何か納得できないのにゃ。それが原因で格差が生まれているとしたら、これは健全な格差じゃないにゃ。

(じいちゃん)

そうじゃな、格差にもいろいろな種類、程度がある。一概に「格差があるのは良くない」とか、「格差が無いと人間は働かない」とかいう話ではない。人間は生まれた瞬間からすでに不平等であり、機会も均等ではありえない。しかし、格差をうまくコントロールし、多くの人が納得できる形で社会が運営されなければ、人々のモチベーションがうばわれ、あるいは不満が爆発し、社会は破壊されてしまうじゃろう。

では、格差をどのようにコントロールすべきか、それはまた改めて考える事にするのじゃ。

2015.5.31 修正