資本主義と共産主義の本質的な違いは

2015.6.30

(じいちゃん)

資本主義と共産主義の本質的な違いについて考えてみよう。ところでねこは共産主義とは何だと思う?

(ねこ)

う~ん、そんな失敗した社会制度のことはあまり考えたことがないのにゃ。そうだにゃ、共産主義といえば自由のない社会で、強制労働で、私有財産が認められなくて、言論の自由もなくて一党独裁で、富める者から富を奪って誰でも彼でも平等にするから、努力の甲斐がなくて人々が無気力になる政治にゃ。

(じいちゃん)

無茶苦茶じゃなw。しかし一般的な認識としては、そんなところじゃろう。確かにソビエトや昔の中国はまさにその通りじゃったから、そういう認識で間違っているわけではない。しかしそれは共産主義そのものではなく、共産主義を実現するための間違った方法論なのじゃ。共産主義は本質的にはもっと別のところに特長があると考えておる。

本来の共産主義とは、多党制の政治で言論の自由が認められ、職業選択の自由も私有財産もあって、会社もあって、起業家もいて、努力に応じた格差が堂々と認められる社会でなければダメだとおもうのじゃ。

(ねこ)

ふ~ん、それじゃあ資本主義と変わらないんじゃにゃいかな。

(じいちゃん)

いやいや、それはあくまでも「表面的」に見た場合に過ぎない。資本主義と共産主義の本質的な違いがどこにあるかといえば、それは経済の考え方に大きな違いがあるのじゃ。

昔の経済を考えてみよう。昔の人々は集落の人が分業してさまざまな作業を行い、それで得られた食料などの生産物を分け合って生活しておったのじゃ。生活共同体じゃな。この場合の経済活動は、「共同生産と分配」で成り立っておる。みんなが働いて自分たちの生活のために必要な財(物やサービス)を生み出し、それをみんなで分配するわけじゃ。だから、共同体に参加して労働すれば、必ず財が分配されるから、貧しくて生活できないような人は発生しない。そのような社会では「貧困は自己責任」という概念は比較的希薄なのじゃ。これが共産主義の考え方であるとワシは考えておる。

一方、資本主義の社会は市場経済じゃ。市場経済の場合は、それぞれの人々がバラバラに作業を行って別々の商品を作る。それらの商品を市場に持ち寄って、商品を自分の生活に必要な財(物やサービス)と交換することで生活する。この場合の経済活動は「個別生産と交換」で成り立っておる。そうなると、それぞれの人々が持ち寄る商品の数量や種類によっては、商品が余ってしまって必要な財と交換できなかったり、そもそも不作や不漁だったりすれば交換するための商品が用意できない場合もある。じゃから貧しくて生活できないような人が発生する可能性が出てくる。そのような社会では「貧困は自己責任」という概念が非常に強いくなると思われるのじゃ。

つまり、経済のシステムにおいて、共産主義は「共同生産と分配」であり、資本主義は「個別生産と交換」であると考えておるのじゃ。これが本質的な違いじゃ。

(ねこ)

共産主義はみんなでつくって、みんなで分け合う経済。資本主義はべつべつに作って、市場で交換する経済。なるほど、そんなふうに考えると、根本的に違うのにゃ。でも「共同生産と分配」の考え方は、昔だから成り立っていたんであって、現代社会のように複雑になると成り立たないんじゃないのかにゃ。

(じいちゃん)

普通の人はそう思うじゃろうが、実は、現代社会でも「共同生産と分配」は社会に広く見られる、当たり前の仕組みなのじゃよ。普通に存在しておる。

(ねこ)

へえ?どこにあるのかにゃ、生活協同組合とかそういうのかにゃ?

(じいちゃん)

いやいや、そこいらじゅうにある「会社」「企業」がそれじゃよ。会社は共同体じゃ。多くの社員が分業して様々な業務をこなして商品を製造したり販売しておカネを稼ぐ。そのおカネを給与制度などのルールに則って社員に分配しておると考えることができる。会社に所属して労働している限り、基本的に報酬が与えられるので、貧困のために生活できなくなる社員はおらん。これは「共同生産と分配」の形になっておる。

日本人は共同体意識が強い民族じゃから、一昔前までは「会社はみんなのもの」との意識が高かった。だからなおさら、会社は「共同生産と分配」じゃった。終身雇用制度といった考え方にもそういう背景があると思うのじゃ。いまは欧米化が進んで「会社は株主のもの、社員は雇われているだけ」になり、派遣社員が増えたために日本人の共同体意識は解体させられつつあるが。

(ねこ)

なるほど、言われてみると、確かに会社や企業は共同体なのにゃ。いまは欧米化が進められて共同体意識が破壊されつつあるけど、会社は社員が協力しておカネを稼いで、それを社員みんなで分配している共同体なのにゃ。

(じいちゃん)

常識にどっぷりつかっていては見えないが、視点を変えると、世界が変わって見えるものじゃ。「共同生産と分配の仕組み」である会社の社内システムはどうなっておるのじゃろうか。会社には給与制度や人事考課制度がある。じゃから、優れた実績をあげた社員ほど高い評価を受けて、高い報酬を得る。格差は存在するが、それは制度として認められ、社員もそれなりに納得できる格差じゃ。またそれ以外にも職能資格給制度や表彰制度など、社員のモチベーションを高める仕掛けが用意され、社員のやる気を高めておる。大企業になれば福利厚生もある。当たり前じゃが、社員は私有財産を保障されておる。生産設備は自分のものではないが、それが会社の所有物であっても株主の所有物であっても関係ない。つまり、それが公共のものだったとしても同じじゃ。

つまり、古臭い考えだと「資本家が居て、起業家が居て、投資で経済が成り立つ」のが資本主義という話じゃが、ワシはあまり関係ないと思うとる。それは表面的な見方じゃ。資本家が居ても起業家が居ても投資があっても、やり方によっては共産主義になると思う。つまり、資本主義とか社会主義とか、そういうイデオロギーから物事を考えてもだめじゃろう。どんな政治体制であろうと「共同生産と分配の仕組み」が成り立つ可能性はあるはずじゃ。

非常に単純に発想すれば、このような共同体のシステムを社会全体に拡大してしまえば、資本主義が共産主義社会に変わるのではないか、と考えることも可能じゃろう。もちろんそんな簡単な話ではないが。たとえば政府が株式をぜ~んぶ買い取ってしまえば、会社はすべて一つになってしまうぞ。

(ねこ)

そんなのあり得ないにゃ。会社は基本的にバラバラなのにゃ。

(じいちゃん)

じゃが世の中はM&Aが花盛りじゃ。会社が合併・統合されて数が減り、どんどん大きくなっているのじゃよ。現在は資本が主導して企業がまとまっていく。関連した事業を飲み込んで、どんどん巨大化しておる。このままいくと、世の中の会社が一つになってしまうかも知れんぞ。不思議なものじゃ。話は違うが、一党独裁の中国の政党は共産党1つだけじゃ。では自由と民主主義の代表のようなアメリカの政党がどうかといえば、民主党と共和党、つまり2つだけじゃ。案外、そんな違いなのかも知れん。

(ねこ)

ふにゃ、はぐらかされてしまったのにゃ。ところで「共同生産と分配」の利点は何かにゃ。

(じいちゃん)

「共同生産と分配」の様式が最も優れている点は、生産した財を共同体の全員で分配するわけじゃから、「疎外者」を生まないことじゃ。働けば必ず分配される。つまり貧困問題を根本的に解消することが出来るのじゃ。また、不況という概念は存在しない。不況とは「財の交換が停滞する状況」なのじゃ。交換が停滞するためにモノが余ったり、逆にモノが不足して貧困が発生する。分配の場合は生産されたすべてのモノが分配によって行き渡るから余ることはない。ただし無駄な作業をする人が多くなると、共同生産の効率が悪くなるため、業務の分担や資源の配分を管理する難しさがあるのじゃ。どんな作業がどれだけ必要かを見極めるシステムが必要となる。それを政府が集中管理しようとして失敗したのがソビエトじゃな。

一方で「個別生産と交換」である市場経済の場合は、無駄な作業をする人は市場で切り捨てられるので、作業の必要性を見極めるシステムは必要ない。放っておけば良いのじゃ。手間がかからないから、その意味では原始的ではあるが優れた方法論と言えるじゃろう。ただし放っておけば、生き残る奴は生き残り、死ぬ奴は死ぬ。さすがにそれを放置すれば、暴動が発生して社会が荒廃するから、現代の資本主義社会は社会保障や福祉政策を取り入れておる。この社会保障のしくみは「交換」ではなく「分配」のしくみじゃ。つまり、交換の仕組みだけじゃと社会が安定しないのじゃな。

つまり、どちらの方法論も一長一短があるわけじゃ。

(ねこ)

なるほど、経済のシステムには「共同生産と分配」の様式と、「個別生産と交換」の様式があるのにゃ。そして「共同生産と分配」の様式を採るのが共産主義で、「個別生産と交換」の様式を採るのが資本主義というか市場経済主義なのにゃ。だから本質的には資本家とか起業家とかは関係ないのにゃ。

(じいちゃん)

資本主義とか共産主義とか、そんな形式的な部分で争っていても意味がないと考えておる。もっと本質的に経済を考え、そして現在のシステムを改革・改善する必要があるはずじゃ。

(ねこ)

ところで、これもおカネが絡むと話がややくしくなるのかにゃ。

(じいちゃん)

恐ろしく複雑怪奇になる。だから、ここで考えるのはやめておこう。