BIと通貨改革の議論なきSDGsは偽善

2021.11.13

 最近、NHKをはじめとするマスコミはSDGsを持ち上げることに忙しい。SDGsとは持続可能な開発目標という名称であり、考え方としては大賛成である。しかし肝心なのは「目標」ではなく、その達成のための「行動」である。結局のところ、世界の富裕層の既得権をしっかり守りながら、大衆の生活にしわ寄せすることで目標を達成しようとする「行動」に走ると思われる。なぜSDGsをそこまで信用できないのか?同じようにマスコミが鳴り物入りで推進してきたグローバリズムや構造改革が、結局は富裕層の既得権を強化し、大衆の生活にしわ寄せする結果をもたらしているからである。そうした現実を見てきた大人としては、それを知らない無垢な(気候変動デモをしている)若者のように、何の疑問もなくSDGsを受け入れることはできないのである。SDGsという美辞麗句によって目をくらまされ、世界の上位1%の人々のご都合主義な政策に付き合うつもりはない。

 具体的に言えば、SDGsにおいて「社会の持続可能性」を問うのであれば、BI(ベーシックインカム)と通貨制度改革の議論は避けて通ることのできない、最も重要なテーマであるはずだ。にもかかわらず、SDGsに関連してBIや通貨改革の話が出てきたという記憶はない。支配層の不利益になる議論を、意図的に避けているのではないか。つまり、SDGsとは、そういうものであると思わざるを得ない。ところで、なぜ持続可能性とBI、通貨制度改革が関係するのか?

 持続可能性とベーシックインカムの関係

 ここには現代の中心的な経済システムである市場経済、つまり交換型経済が深く関わっている。現代の経済の基本的な仕組みは「商品の交換」である。世界の大部分の人々は、自らが生産する何らかの商品を市場で交換することにより生活している。例えば農家は農産品、漁師は水産品を生産し、それを商品としている。そして最も多いのは、そうした生産を行うことができない賃金労働者であり、彼らの商品は労働力である。いずれにしろ、何らかの商品を交換することで生活しているため、仮に商品を生み出すことができなくなれば、餓死するしかないのである。あるいは、交換できる商品の価値が低下すれば、やはり貧困化が免れない。まず、こうした前提がある。

 そして、生産技術の進歩に伴い、生産性は年々向上を続けている。生産性が向上すると、必要とする労働力の量が減ることから、生産性が進展するたびに、労働力が必要なくなり、多くの人が失業してきた。ところが労働者には「労働力」という商品しか持ち合わせがないため、労働力を市場で売らなければ餓死してしまうのである。つまり、人々の生活を守るためには、雇用を確保しなければならない。そのためには、新たな産業を興し、新たな商品を開発し、市場で売らなければならない。もちろん、このように新たな産業、新たな商品が生み出されることで、人々が様々な財を手に入れ、豊かで便利な生活を送るようになったという側面はある。しかし、このまま永久に同じことを繰り返せばどうなるだろうか?

 生産技術は進歩を続けており、その進歩の速度はますます早くなりつつあるという。人工知能やロボット工学の進歩はそれをさらに加速し、人々の労働の多くを機械が代替するようになるという。となれば、ますます多くの労働者が失業してしまう。そうなると、雇用を確保するためますます多くの新たな産業が必要となり、ますます多くの商品を開発し、ますます多くの商品を消費しなければならないのである。これが極端なると「あってもなくても良い商品を、広告宣伝で無理に魅力的に見せ、食品、衣類、家電製品、自動車、あらゆるものを大量消費する社会」になることを意味する。なぜそうなるのか?市場で商品を交換することでしか経済が回らない仕組み、つまり「交換型経済」であるからだ。こうした経済システムが持続可能であるかと言えば、言うまでもないだろう。

 こうした交換型経済の宿命的な欠陥を補完するためには、別の経済システムをかけ合わせれば良い。それは「分配型経済」である。分配型経済とは、人々が生産した生産物を、人々に分配することで成り立つシステムである。この場合、仮に交換するための商品を何も持っていない人でも、社会の構成員であれば分配を受けられるため、誰も餓死する人はいない。こうした分配機能を制度化すれば、それがベーシックインカムとなる。ベーシックインカムとは、人々が生活するために必要なおカネを、すべての人に、無償で提供する政策である。

 ベーシックインカムを支給することで人々の生活が保障されるようになると、雇用を確保するための無駄な生産と消費が必要なくなるのである。今日のように、あっても無くても生活に支障がない産業を興し、無駄な商品を開発し、まだ使える商品を毎年のように新商品に買い替えるような必要がなくなる。そうすることにより、資源の浪費や環境破壊を抑制することが可能になるのである。逆に言えば、ベーシックインカムのような所得保障を行うことなく、強引に資源の浪費や環境破壊を抑制しようとすれば、失業者が増加し、貧困や社会格差がますます拡大することとなる。ゆえに、SDGsを議論するのであれば、ベーシックインカムは必然的に検討されるべき政策であり、それがされないのであれば、そんな議論は偽善であると断言できるのである。

持続可能性と通貨制度改革の関係性

 今日の通貨制度は「準備預金制度」と呼ばれる銀行を中心とした通貨システムである。この通貨システムの特徴は「世の中のおかねはすべて、借金によって作られている」ということである。ところが、驚くべきことに、そうした基本的な仕組みを国民のおそらく95%の人は知らないのである。すでにその時点で持続可能性が低い制度である。国民のほぼ100%の人は「おカネは日本銀行が作っている」と思い込んでいるだろう。では、仮にそうだとして、その日本銀行が作ったおカネは、どういうルートを通じて私たちの財布の中に流れ込んでいるのだろうか?その問いに答えられる国民は5%も居ないだろう。それが現在の通貨制度の実態である。

 最近になってMMT(現代貨幣理論)という学説が一部で流行しており、そのために「世の中のおカネはすべて借金によって作られている」という事実を知る人が若干ではあるが増えている。だが、それはMMTが流行する前から指摘されてきた「あたりまえの話」であり、単にマスコミや識者によって徹底的に無視されてきたため、世間の多くの人が知らなかっただけの話である。「世の中のおカネはすべて借金によって作られている」とはどういうことか?

 銀行が預金を貸し出すことは事実である。そして銀行が貸し出しを行う際には、銀行が保有している預金を貸し出すのではなく、銀行が預金を新たに発行し、それを企業や個人、そして広い意味では政府に貸し出すのである。これは準備預金制度がそのようになっているからである。銀行が企業や個人に預金を貸し出す際に、銀行が新たに預金を発行することによって、おカネが作り出されている。よって、すべてのおカネは貸し出しとして世の中に供給されていることになる(=世の中のおカネはすべて借金によって作られている)。逆に言えば、企業や個人、政府がすべての借金を銀行に返済してしまうと、世の中からすべてのおカネが消えて、経済は破綻する。今日の経済システムは、銀行から借金することを絶対条件とした制度なのである。そして、政府の借金が大きく拡大し続けている現象もまた、「すべてのおカネが借金から作られている」という今日の通貨制度の必然的な帰結なのである。

 さて、そうした制度が持続可能なのか?考え方はいろいろあるだろうが、少なくとも、何らかの議論が行われてしかるべきではないだろうか。ところがSDGsの話題として通貨制度改革について何らかの議論があるとの話は聞いたことがない。おそらく銀行制度は世界の上位1%の人々の権益と深く結びつく制度であるがゆえに、触れてはいけない領域なのだろう。そんな触れてはいけない領域のあるSDGsなど偽善に過ぎないと断言できるのである。

 実のところ、「SDGsが偽善である」と思われる点は他にも多数あるのだが、今回は最も問題だと思う二つの点について指摘しておきたいと思う。