「消費するロボット」が需要を担う

(推敲中)

ロボットは需要を担えるか?これは極めて奇妙な設問でしょう。なぜなら普通の常識で考えるなら、ロボットは産業ロボットのように何かを生産するための道具であり、「ロボットは供給を担う」ものだからです。しかし、あえてこの設問を仮定するには理由があります。不況の原因が「需要不足」つまりモノが売れなくなる現象にあるからです。そして、考えるほどに、この設問の意味の深刻さに驚くはずです。

<「市場」とは真に何を意味しているのか?>

マスコミには「中国の巨大な市場を狙え」などの主張が溢れています。この場合の市場とは需要であり、つまり「モノが売れる場所」ということです。中国の巨大市場に日本の製品を買ってもらうことがビジネスチャンスであり、日本経済の進むべき道であるとの主張が繰り返されています。しかし、この主張を何度も聞かされるうち、ある疑問が湧き上がってきました。この「売れる」という側面からのみ経済を見るのであれば、以下のように考える事ができるのではないかと。

日本で生産された商品が売れればよいのであれば、何も相手が中国人である必要はない。

インド人でもフィリピン人でも良い。

それどころか人間である必要すらない。

「ロボットが日本の商品を買ってくれるなら、それでよいのではないか?」

そうです。商品を買ってくれさえすれば、相手は人間である必要などない。経済のメカニズムは人間抜きであろうとなかろうと、システムとして成り立つなら存続しえるのです。その究極は、人間がすべてロボットに置き換わった自己完結型の経済社会です。確かにそんなのは妄想の世界です。しかし、現代社会の経済は人間性を省みず、経済のメカニズムだけを崇めて盲進を続けており、我々の世界は、ひょっとすると、そこへ向きかかっているのかもしれないのです。

<ロボットに給料を支払えば景気が良くなる?>

さて、すぐに気が付く事ですが、もしロボットが商品を買うとすれば、その代金を「おカネ」で支払わねばなりません。ロボットはおカネを持っていないから、「商品を買う」などということは出来ないだろうと思えます。では、人間がおカネを持っているのは何故なのか?おカネをどのようにして手に入れたのか?

多くの場合、人間は労働して財(商品やサービス)を生み出し、その対価としておカネを手にしています。商品価値のある財を生産して、その商品価値に見合うおカネを受け取っています。さて、ロボットはどうなのでしょう。ロボットも財を生産します。あらゆる製造業で産業ロボットが活躍しています。部分的な生産しか担当していないかも知れませんが、人間も生産ライン上では同じように部分的な生産しか担当していません。

すなわち、ロボットも人間も生産を担っている点で違いが何も無いのです。

違いが無いのであれば、ロボットにおカネを支払っても不思議はありません。もし、ロボットにおカネが支払われて、そのロボットが商品を買うならば需要が増えて商品が売れ、商品が売れる事で利益が出る。景気が良くなり、経済が活性化するはずです。人間におカネを支払うのと同じように、ロボットにおカネを支払っても、システムは成り立つのです。現在の経済のシステムから言えば、人間をロボットに置き換えても、何も問題なくシステムは機能します。ただ「ロボットにおカネを払う」ということに、感情的な違和感を覚えるだけです。

その違和感とは、「ロボットはロボットだから、その導入・維持コスト以上に、道義的な意味でおカネを支払う必要は無い」との考えからきています。人間には給料というかたちでおカネが支払われ、経営上はコストと呼ばれます。一方、ロボットに対してはロボットに支払わない形ですがコストがかかります。ロボットにおカネが支払われなくとも、ロボットメーカーにはおカネが支払われています。リースという形であれば、毎月の給料のように、ロボットではなく、ロボットメーカーに毎月支払われているでしょう。ロボットを維持する電気代やメンテナンス費用も必要です。つまりおカネを支払っているのです。支払い対象が異なるというだけで、企業経営の立場から言えば、人間もロボットも、どちらも「コスト」を必要とします。

ただし、ロボットにかかるコストが、ロボットの導入と維持のために必要な最低限のコストで済むのに対し、人間への給料は、生命を維持するための最低限で済ませるわけにはいきません。実際には、人間がその給料で様々な生活資材を購入するために必要なおカネも含まれています。文化的な生活を営んだり、自動車や家をローンで買うためのおカネなどもはいってくるのです。しかし、ロボットと人間に支払われるおカネの差はなぜ生まれるのでしょう?

<ロボットと奴隷の違いは何か?>

ところで、「奴隷」とは何だったのでしょうか?奴隷はその生命を維持するために必要なコスト、つまり食料などを与えるだけで財の生産に従事させる事ができます。現代の倫理観から言えば、とんでもない悪事です。しかしロボットに対しても、維持するためだけに必要なコストを支払うだけで財の生産に利用する事ができます。ということは、奴隷とは「人間ロボット」だったのです。奴隷は、人間ではあっても限りなくロボットに近い存在に過ぎなかった。奴隷にはおカネは支払われません。家畜小屋のような家に住まわされ、食料を与えられるだけ。そのためのおカネは奴隷自身に支払われるのではなく、奴隷商人や食料品店に支払われるのです。ロボットもそのコストはロボットメーカーやメンテナンス店などに支払われているだけです。

すなわち、メカニズムの類似性から言えば、奴隷もロボットも同じなのです。

しかし、その奴隷が解放され、その奴隷に維持コスト以上のおカネが支払われるようになった結果、奴隷は「消費者」になりました。奴隷がおカネを持てるようになり、「消費者」に生まれ変わった結果、商品が売れ、経済が活性化するようになったのです。であれば、もしロボットがある意味で解放され、そのロボットに維持コスト以上のおカネが支払われるようになったならば、そして、そのロボットが「消費者」となって、商品を買うようになれば、経済が活性化するはずなのです。

ロボットは自主的に商品を求めないから商品は売れない、そういえるでしょうか?ところが、ロボットに「欲求」をプログラムすれば、商品を買うという活動を行なうようにすることができます。経済の主導権を握る企業が「買って欲しい」と考えている商品を買うようにプログラムすれば、その商品が飛ぶように売れるようになり、儲かります。そんなプログラムされた欲求は「偽者だ」という人も居るでしょう。しかし我々のような人間も、その多くはメディアに氾濫する「広告」を見て欲求を覚えている事を忘れてはなりません。ロボットには直接的に「プログラム」を施しますが、人間に対しては間接的に「広告」を通して欲求のプログラムが施されています。人間はそのプログラムに従って物欲を満たします。機能という点で言えば、ロボットは限りなく人間と同じなのです。

どれほど違和感を覚えたとしても、

「売れる」という側面からのみ経済を見るのであれば、

ロボットが需要を担えば商品が売れ、景気が良くなるのです。

なぜこんな理論が成り立つのか?それは経済が単なる「メカニズム」に過ぎないからです。

ロボットにおカネを支払えば経済が成り立つ。

中国人でもインド人でも宇宙人でも良い、

商品をひたすら生産し、ひたすら消費すれば成り立つ。

これこそが、市場経済メカニズムの病める側面なのです。

<「通貨循環システム」として成り立っている経済>

なぜ、ロボットにおカネを支払えば経済が活性化するのか?それは現代の経済が「財を生み出して分配するための経済」ではなく、「カネを循環させるための経済」になってしまっているからです。その根本的な原因は市場メカニズムにあります。生産と消費の無間地獄、生産と消費をひたすら拡大させようとする「利潤追求=利息」にあります。

生産された時に通貨が労働者に支払われ、その賃金で生産された財が消費された時に通貨は再び回収され、その時に利益が生まれる。ゆえに、より多く生産され、より多く消費されることが利益のためには必要であり、消費される事で利益が生まれるのだから、誰が消費しても構わない。