コロナ経済危機は市場経済だから起きる

さて、ここで経済システムについて、もう少し深く考えてみましょう。コロナ経済危機は現在の経済システムが市場経済システムだから起きるのであって、仮に経済システムが共産経済(※下記)であったなら、そうした問題は起きません。といっても、大部分の国民は何のことかさっぱりわからないと思います。なぜなら、ほとんどの皆さんは、市場経済と共産経済の仕組みの違いを何も理解していないからです。市場経済と聞けば、民主主義とか自由とか私有財産を思い浮かべるでしょうし、共産経済と聞けば、一党独裁政治とか私有財産の制限とか、そういう表面的な印象を思い浮かべるに過ぎません。しかし市場経済と共産経済の最も大きな違いは、市場経済が「交換型経済」であり、共産経済が「分配型経済」であることです。両者を簡単に説明すれば、交換型経済とは、それぞれの経済主体(個人や企業)がそれぞれに生産した財(モノやサービス)を互いに交換することで成り立つ経済であり、分配型経済とは、それぞれの経済主体がそれぞれに生産した財を、全員に分配することで成り立つ経済のことです。それぞれ、コロナ経済危機と絡めつつ、違いを考えてみましょう。

(※)ちなみに中国(中華人民共和国)は共産主義と思われていますが、現代の中国は共産主義ではありません。中国共産党による一党独裁の市場原理主義国家であり、国家資本主義とでも呼ぶべきシステムです。共産経済のシステムはみじんもありませんので、あらかじめご確認ください。

① 交換型経済(市場経済)

市場経済とはどんな経済でしょう?それは「個別生産と交換」を基本とします。例えば魚を取る人(漁師)と農産物を生産する人(農夫)、がいて、それぞれはまったくの他人であって、彼らは共同体を形成しているわけではなく、同じ集落や同じ国である必要もありません。そして、漁師はもっぱら魚を捕り、農夫はもっぱら農産物を生産します。そして、それぞれが生産した財である「魚」と「農産物」を交換することで、互いの生活を豊かにすることができます。この交換活動が市場と呼ばれます。昔は文字通り、市場という場所に商品を持ち寄って交換していましたが、現在の取引は必ずしも特定の場所を必要としませんので、取引活動を総称して市場と呼ばれます。この経済システムでは、互いに交換するための、何らかの財をそれぞれが生産することを前提として成り立ちますので、何も生産できない人は必然的に市場から除外されることになります。

このシステムにおいて、仮に何らかの理由で漁師が魚を取れなかったとします。すると漁師は市場で何も交換することができませんので、最悪の場合、漁師は何も手にすることができずに餓死することになります。一方で、農夫は農産物をいつもと同様に収穫しますが、市場で交換相手となる魚がありませんので、農産物は余り、腐って捨てられてしまいます。つまり、漁師が餓死する傍らで、農産物が余って捨てられてしまうわけです。この経済では、社会の人々はあくまで赤の他人であり、共同体ではありません。赤の他人が生きようが死のうが、基本的には関係ありません。これが自己責任社会です。

さて、これをコロナ経済危機に当てはめて考えてみましょう。今回のコロナ災害の場合、感染を恐れて人々が外出を控えたり、政府が感染拡大防止の観点から、国民に外出の自粛を求めたりしました。その結果、飲食店などに来店するお客様が激減して、外食産業の売り上げが壊滅的な状況になってしまいました。外食産業は先ほどの例で言えば「漁師」に該当します。そのため、外食産業に従事していた人々は、所得の低下や解雇を余儀なくされます。

外食産業は、外食サービスという財を生産し、それを市場で販売しています。市場において外食サービスとおカネを「交換」するわけです。お客さんが来店しなくなるということは、外食サービスの生産ができなくなることと同じです。外食産業のようなサービス業は製造業と違って、事前に商品を生産しておくことができず、顧客が来店して初めて生産されるので、少し特殊な性質があります。いずれにしろ、市場で交換するための財を生産できなくなるため、外食産業に従事する人々は、市場でおカネを得ることができなくなってしまいます。おカネが得られなければ、生活に必要な資材を市場で買うことができず、外食産業に従事する人々の生活が破綻します。

さて、コロナ災害では最初に外食産業がダメージを受けますが、この段階では他の産業、農業や製造業などにほとんど影響はありません。これは先ほどの例で言えば「農夫」に該当します。食料品や日用雑貨、衣類などの生活必需品は、これまでと同じように潤沢に生産され、小売店にも商品が潤沢にあります。

ところが、外食産業に従事する人々の所得が減ると、それらの人々の購買力が減りますから、食料品や衣料品、電化製品、雑貨などの売り上げが減少してしまいます。すると、農業や製造業でも売り上げが減少するため、それらに従事する人々の所得が減少します。そのため、それらの人々の購買力も低下して、社会全体として売り上げが減少してしまいます。ここで注目すべきなのは、最初の段階では、外食産業だけに生産の低下が起きるのですが、それが農業や製造業の生産も引き下げる結果になるということです。農業や製造業に何の問題も発生していないにも関わらず。そして経済全体が貧しくなる。

再び、先ほどの例で考えてみましょう。はじめは、漁師が100の魚を生産し、農夫が100の農産物を生産していました。それぞれ自分たちが食べる量を50とすると、それぞれ50の生産物が余剰になります。この余剰の生産物を市場において、それぞれ交換することで、それぞれが50の魚と50の農産物を手に入れることができました。この時点における社会全体の生産量は魚100+農産物100=200です。

ここで何らかの問題が生じて漁師の魚の生産がゼロになってしまうと、市場で交換するモノが何もなくなるので、漁師はそれまで手に入れていた農産物を手に入れることができなくなります。一方で、農夫は100の農産物を生産できますが、50は余剰生産分ですので、市場で交換したいのですが、交換相手である魚がありませんので、交換できません。そのため、50の農産物はやがて腐って捨てられることになります。この時点における社会全体の生産量は魚0+農産物100=100です。

こうなると、農夫は生産するだけ無駄なので、農産物の生産量を50に引き下げてしまいます。生産能力はあるのですが、市場に交換する相手がないので、生産を止めてしまうわけです。この時点における社会全体の生産量は魚0+農産物50=50です。このように、魚の生産量が100減少すると、その影響は魚の生産にとどまらず、農産物の生産量も50に低下してしまいます。特定の産業に問題が生じると、それが連鎖的に社会全体の生産を縮小してしまうのです。

もちろん、これは2つの産業からなる単純化モデルであって、実際の社会では様々な産業があるわけなので、ここまで極端になることはありません。しかし市場経済には、連鎖的に社会全体の生産を収縮してしまう性質を有することは間違いない事実でしょう。

その例として有名な現象が「デフレスパイラル」です。多くの人々は、所得が減ると生活防衛のために財布の紐が固くなり、消費を減らして貯蓄を増やそうとします。多くの人が消費を減らすと、企業の売り上げが減少してしまいます。そのため、企業は経営が苦しくなり、従業員に支払う給料を引き下げざるを得なくなり、企業で働く人々の所得が減少します。そして所得が減少した人々は、ますますおカネを使わなくなる。すると、ますます企業の売り上げが減る。こうして、経済がどんどん縮小するのが、デフレスパイラルです。市場にはこのような性質があるため、新型コロナウィルスによる活動自粛は、連鎖的に経済活動全体を縮小へと向かわせる傾向があります。

そして、ここには大変に重要なことがあります。この生産の縮小は、災害や戦争などによって生産能力が破壊されるために起きているのではない、という点です。仮に災害や戦争によって生産設備が破壊されることで生産不能になったのなら、生産量が減って人々が貧しくなることは避けられません。しかし、コロナ経済危機はそうではありません。生産能力に問題が生じるのではなく「売れないから、意図的に生産を止めてしまう」ことによって生じます。生産能力は何らダメージを受けていないのですから、生産すれば国民が貧しくなることはありません。しかし、作らないのです。「売れないから作らない」という理由で国民全体が貧しくなるのは、非常に馬鹿げた現象です。しかし、市場経済ではそうしたことが当たり前のように起こります。

② 分配型経済(共産経済)

一方、共産主義に近い考え方である「分配型経済」では、そうした連鎖的な経済の縮小は起きません。なぜでしょうか。次にそれを考えてみましょう。

なお、最初にお断りしておきますが、私は本書において「だから共産主義は正しい」とか「資本主義を捨てろ」と主張するつもりは毛頭ありません。そうした急進的な社会改革は、まず成功しません。そうではなくて、現在の経済システムをより優れたものに改善するためのヒントを、他の経済システムからも貪欲に学ぶべきだとの立場です。最初から否定して目を背けるだけでは、何も学習できません。功罪を正しく理解する必要があります。

分配経済は「共同生産と分配」を基本とします。それぞれの経済主体(個人や団体)が共同作業で財を生産して、それを集めて分配する経済です。それらの経済主体は赤の他人ではなくて、共同体を形成しており、密接な関係にあります。その原点は原始共産制の社会にあります。はるか昔の時代、人々は集落を形成し、集落単位で狩猟採取や原始的な農作業を行い、生活していたと考えられます。これが共同体です。そうした時代では、共同体の構成員である人々は共同あるいは分業で生産活動を行っていたでしょう。ある人は海に魚を捕りに行き、別の人は村の畑で農作物を栽培するわけです。そして、それぞれが収穫物を持ち帰り、集落の構成員で山分けにするわけです。これが共同生産と分配の経済です。

こうしたシステムでは、仮に何らかの理由で魚が取れなかったとしても、魚を捕る役割を担っていた人が飢えることはありません。なぜなら、生産物をみんなで山分けにするわけですから、仮に魚が取れなかったとしても、畑で採れた農作物はすべての人に平等に分配されます。それぞれが生産したモノを交換するのではなく、みんなに分配するのですから、この社会に飢える人は出ません。そもそも共同体なのです。共同体の構成員を飢えさせるわけには、いかないのです。もちろん、怠け者に分け前は与えられないかも知れませんが。

現代社会において分配型の経済が体現されるとすれば、どんなシステムになるでしょうか?今日、世界のほぼすべてが市場経済システムであるため、確たることは言えません。一つの考え方を示します。分配型の経済は社会全体が大きな共同体であるため、すべての個人や企業は共同体の管理主体であるところの政府に属することになるでしょう。巨大な国営企業にすべての人が就職しているようなものです。ですから、生産主体が生産した商品はすべて政府に集められ、それを政府が販売する形になるでしょう。それぞれの人は、それぞれの仕事の役割や成果に応じて、政府から給料を受け取って、それを用いて政府から様々な商品を買うわけです。このようなシステムであれば、おカネは常に政府から各個人に支給されますので、失業する人は誰もいませんし、生活に困窮する人は誰もいなくなるわけです。

さて、これをコロナ経済危機に当てはめてみましょう。外食産業が自粛や政府の休業要請によって壊滅的に売り上げが減少したとします。交換型経済では、社員への給料は企業の売り上げ金の中から賄われますので、企業の売り上げがゼロになると、給料が一円も払えなくなります。一方、分配型経済の場合、給料は政府から出ますので、今までと同じように支給されます。なぜなら、政府は外食産業以外の産業で多数の売り上げを有していますし、また、政府は通貨を発行する権限も有していますので、社員に給料を払うためのおカネが不足することはありません。従って、外食産業の売り上げが壊滅状態になったとしても、外食産業に従事する人々の給料が減ることはなく、その悪影響が経済全体に連鎖することはありません。

最初の例で考えてみましょう。はじめ、魚を捕る人が100の魚を捕り、農作業をする人が100の農産物を収穫し、それを集めて、それぞれに魚50と農産物50を分配していました。この段階における生産量は魚100+農産物100=200です。一方、何らかの理由で魚の収穫がゼロになってしまったとしても、農産物100をそれぞれ50ずつ分配します。こうすると農産物が余ることはありません。この時の生産量は魚0+農産物100=100です。農産物100が余ることなく消費されるので、生産量が減らされることはありません。このように、分配型の経済の場合は、どこかの産業分野で問題が生じたとしても、その影響が他の産業に連鎖して、経済全体が縮小へ向かうことはありません。

以上の考察より、もし、今日の経済システムが市場経済であり、かつ、コロナ感染拡大の影響によって外食産業の売り上げが壊滅的な状態になったとしても、分配型経済と同じように、それらの企業や従業員に対して、政府から必要十分なおカネが給付されるのであれば、連鎖的な経済縮小を防ぐことができることが理解されると思います。だから給付金が必要とされるのです。給付金の目的は困っている人を助けるためとか、そういう感情的な意味ではありません。経済システムの維持のためにおカネを給付するのです。

「なぜ自粛によって経済がダメージを受けるのか?」。多くの国民はこのことを「自粛で売り上げが減るんだから、経済がダメージを受けるのはあたりまえ」程度にしか考えていないでしょう。しかし、これは現在の市場経済システムに組み込まれている性質によるものです。なぜこうした事態を引き起こすのかよく考えないと、問題の本質を理解することはできません。そして問題の本質を理解できなければ、効果的な対策を考えることはできないでしょう。

>続き~ 交換型経済と分配型経済は一長一短