嘘の本質を問い直す
「自覚」ではなく「制御なき本能」として
「自覚」ではなく「制御なき本能」として
By Artfarmer2026年9月27日
心理学において、嘘とは一般的に「意図的に相手を欺こうとする行為」であり、「自分が本当のことを言っていないと自覚している」ことがその条件とされる。この定義に従えば、認知症の方が事実と異なることを話しても、それは嘘ではない。同様に、本人が心から信じ込んでいる誤った発言も、厳密には嘘とは呼べないことになる。
学問的な定義としては明快で、一貫性もある。しかしこの定義を、以前の記事で立てた問い──「乳児は嘘をつくか」──に当てはめると、途端に緊張が生まれる。
以前の記事ではこう論じていた。
学問的定義(意図の自覚)を前提にすれば、赤ん坊は嘘をつけないことになる
しかし偽泣きは、意図の自覚こそなくとも、他者の行動を引き出すという「機能」の点で、すでに嘘と呼べるのではないか
「嘘の出現」を年齢で語るのではなく、「本能としての嘘」に理性が後から追いつき、自覚的に使い始める瞬間こそが、本当の分岐点ではないか
「自覚」を必要条件とする学問的定義を採用する限り、この「偽泣きは機能としての嘘だ」という立場は、定義上「嘘ではない」側に押し戻されてしまう。
ここで一つの訂正が入る。「自分が本当のことを言っていないと自覚している」という条件そのものが、誤りだったのではないか、という気づきである。
整理するとこうなる。
「自覚」を嘘の必要条件にしてしまうと、偽泣きのように、意図の自覚を欠きながらも機能としては相手を欺く行為が、定義からこぼれ落ちてしまう。しかし機能の面から見れば、偽泣きは紛れもなく「嘘」としての役割を果たしている。
したがって、嘘の本質は「自覚の有無」にあるのではなく、「機能として他者に偽の状況を信じ込ませる」という点にある、と考えるべきだ。
この立場に立つと、以前の記事で示した図式──嘘は本能であり、自覚や理性はその制御が始まる段階で初めて意味を持つ──が、より一貫した形で立ち直る。「自覚」は嘘の定義そのものの条件ではなく、理性・社会的成熟がその本能に「追いつく」ときに初めて現れる、後発的な要素にすぎない。
これは単に「学問的定義は不正確だ」という指摘にとどまらない。以前の記事の核心──嘘は生まれつきの本能であり、理性は後からそれを制御し始めるだけだ──を、定義のレベルから裏づけるものになっている。
ここでもう一つ、重要な訂正が加わる。最初、乳児の偽泣きと認知症の方の作話を並べたとき、次のような区別を持ち出していた。「発達途上の本能」(乳児)と「理性の基盤の損傷」(認知症)は異なる、と。理性の基盤が損なわれている場合、理性はそもそも追いつきようがないのだから、偽泣きとは違う特殊なケースなのだ、という理屈である。
しかし、この区別そのものが誤った前提に立っていた。「理性が働ける状態でなければ、そこに嘘は成立しない」という前提を、暗に持ち込んでしまっていたのである。これはまさに、最初に退けたはずの「自覚がなければ嘘ではない」という学問的定義の、形を変えた再登場に他ならない。
では、どう考え直すべきか。論理はこうなる。
理性が働くための前提は、何かを「認識している」ことである
認知症の方も、目の前の状況・記憶の空白・問いかけといった何かを認識してはいる
理性の仕事は、その認識された内容を制御し、事実に沿った形に調整することである
ところが理性の基盤が損なわれているために、この制御が働かない
その結果、認識された内容が、理性による調整を一切経ないまま、そのまま発話として出てくる
制御(理性)を経ていない、素の認識がそのまま出力されたものこそ、まさに完全な嘘である
つまり、理性が機能しないから「嘘とは呼べない」のではない。理性が機能しないからこそ、本能・認識がまったく制御されずに剥き出しのまま出てくる。その意味で、認知症の方の作話はむしろ最も純粋な形の嘘だ、という逆転した結論に至る。
この訂正は、以前の記事で示した「四層構造」とも整合する。理性とは、本能を制御する装置である。制御が働かない状態とは、理性が存在しない状態ではなく、理性が本能に追いついていない、あるいは追いつく力を失っている状態を指す。そして、その状態で本能(欺きの機能)がそのまま発現したものこそが、制御を一切受けていない、最も剥き出しの嘘だということになる。
偽泣きの場合:理性が「まだ追いついていない」
認知症の作話の場合:理性が「追いつく力を失った」
両者には違いがあるが、「制御なき本能の発現」という点では同一であり、だからこそ、どちらも等しく「嘘」だと言える。
理性がまだ「到達する前」の状態(乳児)と、理性が「失われた後」の状態(認知症)。この両極にある事例を並べて考えることで、理性が本能に対して行っている仕事の輪郭が、より鮮明に浮かび上がってくる。
理性が存在しない、あるいは機能しない両端を見ることで、逆説的に、理性が「ある」とはどういうことなのかが分かる。理性とは、常にそこにあるものではない。本能という土台の上に、発達によって現れ、老いや損傷によって失われうる、脆く一時的な制御層なのだ。
この視点は、以前の記事の「四層構造」に、時間的な厚みを加えるものだと言える。理性は一度獲得されたら固定される装置ではない。獲得される前の状態と、失われた後の状態という、両側に「制御なき本能」がむき出しになる局面を持つ、動的な層なのである。