The First Guest

『この世界は目に見えるものを信じちゃだめニャ。思いの強さがすべてニャ』

(第22夜)


しんどい話だー。現実に疲れていたらグレゴリーハウスなんて得体の知れないホテルに迷い込んじゃって、そこがあんまりヤバいので頑張って戻ってきたけど、やっぱり現実の方もロクなもんじゃなかったっていう。どっちに転んでも地獄しかねえ!

公式サイトがあったころは確か第1シーズン第1夜がPVとして公開されていて、MHSのノリで初めて見た私はうわっ血だーーーーーッてそれこそ血の気が引いたのを覚えてます。暗記するほど見た今でも採血シーンだけは見るたびに気が遠くなってダメだ。

初っ端こそグロ押しですが、第2夜で早速頭にハンガー引っかけたりしてくるあたり、あくまで「ホラーコメディ」なのが好き。


主人公はかなり散々な目に遭いますが、グレゴリーもそれに引けを取らないくらいボロボロにされてるので、作品としてはうまく後味悪くなりすぎないバランス保ってるよね。第11夜でグレゴリーがネコゾンビに尻尾食われたのは正直かなりカタルシス感じちゃったもの。いやグレゴリーは主人公の鏡写しなんで、グレゴリーがひどい目に遭うってことは……なんですけど。

主人公の鏡写しの真実であり、「満たされぬ心」「日常に押し殺された欲望の姿」であるグレゴリーの言うことは、多分、主人公の身も蓋もない本音なんじゃないかなあと思うんですよ。例えば最初の「良いご滞在を、永遠に」なんて、本当はいっそ永遠にこのままさまよっていたいっていう気持ちなんじゃないか、とか。

そう思って見ると、グレゴリーがちょいちょい訳知りげに真理っぽいことつぶやいていくのも、本当に「普遍の真理」として言ってるわけじゃなくて、「真理だと主人公が思ってること」なのではなかろうか。第8夜の『誰しもご自分がかわいいものですから。真実とは残酷なものでございます…』なんて、審判の答えに対する主人公自身の言い訳っぽくない?


第10夜・第25夜に出てくる現実世界の描写は開き直って(と言ってもいいと思う)実写をそのまんま使ってますが、つまり作品の中の主人公にとっての「現実」って、我々が生きてるこの三次元の現実と限りなくイコールなんですよね。だから多分、画面に映らない主人公は、最初に来たときは生身の人間に近い姿してるんだよ。まんがで言ったら劇画。あのグレゴリーハウスそのままの中で、一人だけ実写。

それがだんだんグレゴリーハウスにいることを受け入れていって、ついに現実への未練を吹っ切ってしまうと、あの世界の姿を持った住人になる。と私は思っている。

であるからこそ、あんな非現実的な世界がかえって説得力を持つわけでもあるのだ。これは「キャラクター」というものに対する比喩のメタネタですらあると思うんですが、現実の人間の情報量ってものすごく多くて、キャラクターってその情報をそぎ落としてデフォルメしたものじゃないですか。ハウスの住人というキャラクターになることは、自分の現実のいろんな部分を切り捨てて、欲望の記号そのものになるってことなんだよ。


ですので、あそこに登場する他の宿泊客たちはみんな、既に現実の方を切り捨てた「キャラクター」なんだろうなと思ってます。

一番分かりやすいのはキャサリンで、分かりやすいからこそ第4シーズンで主人公に抜擢されたんだとも思うんだけど、採血っていうただ一つの欲がまともな職業意識に勝っちゃった人。

ロストドールは「人形を探し求める」ことだけがアイデンティティになってしまったので、永遠に探し続けることができるように、ケイティは絶対に見つかることのないところに居場所を作ってしまった。

ミイラ親子の第7夜は冒頭からいきなり気の抜けたBGMで、始まってからずっと張りつめてた空気がそこで一旦緩む感じが好きです。坊やはあんなにパタパタ元気に走り回ってるけど、「病弱な自分」を主張することにしか興味ないんだよね。

シェフなんか料理しか見えてないし。とにかくみんな何か一つのものだけに執心してて、やたら極端なのだ。あートイレット小僧だけは何がしたいのか私未だによくわかんないんですが。


ちょっとロストクオリアの話も加味すると、干からびた死体はそういう執着が「ない」というキャラクターで(死体さん、LQにおける出世頭だよね)、強いて言えば「何もしたくない」「何でもありたくない」という欲望に執着しているだけの存在だと思う。死んでるのに消えてなくなるのは嫌で、かといって生きて何かをしたいというほど強い思いもなく、生身の身体を探しに出ることもできずただ誰かが来るのを待っているだけという。

第19夜でグレゴリーが『外に出るにはどのみちあそこを通る』と言っている「あそこ」は墓場のことだと思うんですが、現実に疲れてさまよった果てに行き着く境地こそ「干からびた死体」ということでしょうか。

そんでこれは第2シーズンの先取りなんですが、最終的にハニワがホテルの住人になってることを考えると、ハニワサラリーマンの欲望は「現実にしがみついていたい」ということなんじゃないかと思う。きれいな現実への未練。ぼくはこんな醜い欲におぼれたりしないぞ、ちゃんと生きてたいんだ、みたいな。

でも実際は彼は現実についていくことはできなかったわけで、そういう未練の擬人化がハニワという住人の形を取ったのだ。……いやまあ第1シーズンの主人公は、最終夜を見る限り、現実に疲れたっていうか半分くらいは嫁が嫌いなだけなんじゃないかと思うんですが。


ところで、キャサリンたちみたいに明らかに自分の欲望の方しか向いていないやつらはともかく、それ以外の特にシーズン後半に出てくる連中は、どこまでが「ホテルの宿泊客」あるいは「住人」なのか私ちょっとよく分かってないんですよね。主人公の進む道を勝手に決めてきたり、主人公に真実を見せてこようとしたり、選ばせようとしたりする連中。あのへんは個々の欲望の権化というより、どちらかというとグレゴリーに近い、ホテルの保守管理を担ってるキャラクターじゃないですか。

例えば審判小僧ですね。何でも二択でジャッジしたがるのはまあ、本人の欲望の赴くままなだけかもしれませんけど、その質問はグレゴリーハウスの本質に迫るものだったりする。

選択肢のうち、ハートマークが象徴するのは「せつなくて、哀しくて、はかない、そして温かいもの」、多分グレゴリーハウスとは無縁なちゃんとした生きる心みたいなもので、反対にドルマークの方はまさにグレゴリーハウスにふさわしいむき出しの我欲って感じ。まるで、まさに相手がグレゴリーハウスにふさわしい存在なのか、現実に戻るべき存在なのかジャッジしてるようなものだ。

でも実際には対象がどちらを選ぼうが関係なく、審判小僧が勝手に答えを決めてしまう。結局のところ、ひとに提示された選択肢なんてそれに従っている限りどれも同じようなもので、本当の答えは自分が信じたものでしかないのだ、っていう話ですよね。

審判小僧ゴールドの問いで初めて主人公は自分の「道」を見出すわけですが、後半繰り返し出てくる「道」っていうキーワード、端的に言えばこれって現実を生きてくことじゃないですか。


僕の目の前に道は続いている。進むことしか許されない一本道。(第15夜)

暗闇の中を走ることが恐いのではなく、道が続いていると信じていることが恐ろしい…(第16夜)

相変わらず道は見えない。ここが何処かすらわからない…しかし、取り戻した僕のハートが、前に進めと脈打つのを感じる。(第19夜)

『あなた道が閉ざされたと思ってるでしょう。そう思い込んでいるだけ。道は続いてるのよ、あなたの目の前に!…道はあったのよ、初めから。あなたが見ようとしなかっただけ』(第20夜)


そもそもグレゴリーハウスって、道を進むのが嫌になっちゃったり、道が見えなくなったりした人が迷い込む場所なわけですよ。このへんは第3シーズンで語られる話だと思いますが、生きて先へ進むわけでも死んで終わりにできるわけでもなく、生の途中で道を外れてさまようための時間の歪んだ場所、それがグレゴリーハウス。だから主人公が道に戻ろうとするってことは、当然グレゴリーにとっては一番困ることなんですよね、まさに自分が要らなくなっちゃうってことなので。

で、「道」を進み直そうとする主人公の背中を押してくれる、ホテルの中でほぼ唯一の存在がネコゾンビなわけですが、彼に関しては『アナザーガイド』(※)の原作者インタビューが核心的なことを書いてました。


彼だけは自我が崩壊していないんですね。(中略)ネコゾンビはあの世界に逃げ込んだんですよ。でもそこでも馴染めなかった。それがグレゴリーとネコゾンビの確執なんです。(p39)


ネコゾンビもまた尋常ならざる食欲という執着を抱えながらも、それのみに没頭することはできなかった。グレゴリーハウスに来てなお現実の見えているネコゾンビだからこそ、グレゴリーはその目を縫い付けてしまったのだ。

ネコゾンビ自身はもはや「道」に戻ることはできないししないのだろうけれど、でも少なくとも主人公がそこに戻ろうとする限りは必ず協力的でいてくれるんですね。もちろん自分の道は自分で作るしかないので、ネコゾンビにできることは助言して励ますことまでなんだけど。


と書いてて思ったんだけど、インコキンコも主人公のハートを守っていたくらいだから現実の味方側のはずだよね……。キンコ、第18夜で「いつ目を覚ますかわいにも分からんのや」って言われた直後、インコと2人っきりになった時にはすぐもう目を開けててぐっときました。

そして、味方のようでいていつも信じきれないのがエンジェル&デビルドッグ。この子、比較的メインキャラらしい扱いを受けている割に、アニメ全シーズンを通して今回しか登場していないのが意外でした。

天使と悪魔が2人で一人なのって、主人公とグレゴリーの姿を自覚的に使い分けられるようになった存在みたいなものなんじゃないか、とちょっと思う。だからこそグレゴリーはエンジェルドッグをことさらに邪険にしたのではないか……。


えー全く個人的な話なのですが私は誰か一人挙げろと言われたらカクタスガンマンが好きです。ガンマン、帽子の高さ込みで他の人と同じくらいの体格なので、顔の位置がかなり低いんだよね。要するにちっちゃいのである。かわいい。第9夜の一番最初の登場シーンだけは一瞬かっこいいんだけどね!!

あとガンマンに撃たれたグレゴリー、帽子から血を流してるようにしか見えないんだけどあれは意図的にそうなっているのだろうか……。第11夜でちゃっかり百ドル札になってるグレゴリーはこのときと衣装が同じもので、一張羅なのかよって笑っちゃいました。


国産初のフルCGアニメということだそうですが、90年代のCGで今見てもこんだけ遜色ないのはキャラクターデザインの勝利だなーと思う。廊下の幅とキャラクターの大きさとかよく見ると回によってまちまちのような気もするんですが、でもそれってこの世界は現実じゃないからこそあえて揺れがあるのかなーと思えばそれでいいのかもしれない。


※『グレゴリーホラーショーアナザーガイド』(ケイブンシャ、2000年)

原作者へのメールインタビューにて、「いちばん好きなキャラクターは」という問いに対し、答えが「ネコゾンビ」ということでこのようなお話をされていました。

現実逃避しなきゃやってらんないっていう厭世的な作品で、その中にあってもやはり現実を見据える『よいキャラクター』がいちばん好きって、なんかちょっと生きる希望じゃないですか、ねえ。