現実にある昇進基準における議論についての見解は、一つの昇進基準の箇所だけではなく、複数の昇進基準において共通して前提となることになる可能性がある。そこで、現実との乖離からは外れるが、総論において述べておきたい。
連覇は、横綱昇進基準のもっとも基本的なものである。上では、千代の山の連覇見送りも説明できる基準も作れる、ということを示すため、2場所26勝以上の連覇という見送り不当ラインを示したが、横綱推薦基準では単に連覇だし、それが双羽黒以降は実際の昇進例の理解としても正しいといってよいだろう。
そこで、昇進基準についての連覇の妥当性について、1.1場所単位で優勝であること2.2場所単位で見ることの妥当性3.連覇の妥当性、4.大関在位が前提となっている点について論じたい。
連覇が妥当なものかを判断する前提として、1場所単位の成績として優勝が横綱にふさわしいかということを考える必要がある。
その前提として、我々が場所ごとの成績を基本的な成績の単位としてみるという事実について確認しておきたい。
協会自体も15戦を一つの場所としてその成績を表彰しているし、対戦結果は、相手に依存することが大きく、比較に説得力が感じられないのに対して、15戦という数があり、上位はほぼ同じメンツ、固定されていない関脇以下の力士はほぼ同じ実力とみなせることから、場所同士は比較可能なものとみることができるから、ということもあるだろう。
その1場所の成績のうち、優勝という要素が、内規においては横綱のもっとも基本的な評価となっていることになる。また、内規の存在を念頭においた実際の昇進例も、優勝がかなり重視されている。
前述の優勝に対する評価からすれば、優勝を昇進基準において用いるのは妥当だと思う。
これに対し、優勝を絶対的な指標とすることに反対し、星数を重視すべき、という主張があり、その理由として、優勝が偶然によるものである、ということが挙げられることがある。このような考え方は正しいのだろうか。
まず、優勝がどれだけ偶然によるものか。一つの指標として、6場所時代(s33初以降)の優勝のうち、10回以上優勝した横綱が優勝した割合は、65%となる。判断に困る数字である。星数と比較すると、同時期における役力士の13勝以上のうち、同じく10回以上優勝した横綱によるものの割合は、76%となる。確かに星数の方が実力なのかもしれないが、問題にするほどのものでもない
しかし、おそらくこの主張の真意は別のことにあると思われる。
それは、昇進判断が微妙になる力士については星数の方が適合的なのではないかということである。
一番手がいる場合、二番手になる力士が優勝するかどうかは、一番手の力士を一時的にでも乗り越える、というよりは、一番手の力士は休場するかどうかによることが大きい。
そして、一番手の力士は昇進基準をどう設定しても昇進するのに対し、昇進するか否かが変わってくるのは、そのような二番手の力士なのである。
だから、昇進基準では星数の方を重視すべきである、と。
私はこのような主張には懐疑的である。
優勝を横綱にふさわしい成績とすることは、1番強い力士が横綱である、という価値判断があるといえる。私はこの価値判断を支持している。
そして、この価値判断からは、連覇否定派が念頭においているような本来二番手の力士は、本来横綱にすべきではない、といえる。
そもそも、一番手の力士が出場するか否かで、星数でも1勝分の違いは生じている。それでも上記のような主張がなされるのは、星数は15分の1だが、優勝はするかしないか、というイメージに基づくのではなかろうか。
優勝は確かにするかしないか、というものであるが、優勝同点や次点、という評価方法もある。次点と対応する星数は12勝(45%)だろうが、15勝から12勝までの階級は4つ、それに対し優勝、同点、次点は3つ。見かけほど星数がきめ細かく判断できる、ということでもないのではなかろうか。
ここで旭富士の件について言及しておきたい。平成元年5月 の見送りについて、見送り反対側は言及しないが明らかなのは、三場所間に優勝がないことである。それが見送りの大きな理由であった。
これを不当という主張なのだが、三場所間の優勝者が、北勝海-千代の富士-北勝海なのは注目しておきたい。
この三場所の前は千代の富士四連覇。この時期も、北勝海ではなく千代の富士が第一人者と見られていたのではなかろうか。それにもかかわらず北勝海に二回優勝をさらわれているのである。
しかし、この場所まで五場所連続次点又は優勝同点なのは確かに目を引く。つまり、成績としては常に二番手だったが、一番手が固定されていたわけではないにも関わらず二番手であり続けていたという事情がある。
現実に強い横綱がいた時代でも二番手の力士が横綱に昇進し続けていたのは、二番手でもよい、という価値判断が角界にあるということだと思われるが、そのような価値判断を前提としても、見送ることは不当な判断ではなかったと思っている。
優勝については突っ込んで考えておきたいところがある。
すなわち、番付の性質のところで、私は横綱や大関の地位は、順位では説明できないものがある、と述べた。そこでも示したように、横綱が2名の場合、3番目の者を横綱の3人目にするか、大関の1人目にするかは決定できないからである。
優勝を判断要素に置くのは、これに反しているといえる。
しかし、横綱にふさわしい成績というのは価値判断であり、何も前提を置かずに直ちに答えがでるようなものではない。
私には、全勝が横綱にふさわしい成績であるのは当然のように思われる。それを敷衍すれば、次のようなことになる。
15戦全勝というのは、ある場所において力士が可能な最も良い成績である。全勝が横綱にふさわしくない成績なのであれば、横綱にふさわしい成績は存在しなくなる。
これは不合理なので、15戦全勝というのは横綱にふさわしい成績である。
しかし、これもある前提があることが分かるだろう。すなわち、「ある一場所において横綱にふさわしい成績が必ず存在する」というものである。これには、そのような前提を否定する方がいるかもしれない。反論の余地がないわけではないのである。
さて、優勝を横綱にふさわしい成績とするのも、言葉の説明としては「ある一場所において横綱にふさわしい成績が必ず存在する」という前提に基づくものといえる。15勝は、場所前の時点で1場所の成績として考えうる最高成績であり、優勝は、場所が終わった時点で1名存在していることが保障されているもの、と捉えることができるかもしれない。この両者に差異は存在するが、連続性を持ったものともいえるのではなかろうか。そう考えると、「最優秀成績者である」という事実は横綱にふさわしい成績とするのも認められるのではあるまいか。
あえて表現すれば、1番は特別なもので、1番と2番の差は、2番と3番の差やそれ以下の順位の差とは異なる格別なものだ、という思想である。
というわけで、横綱にふさわしい成績は、星数の最高評価である全勝と、優勝等の最高評価である優勝を中心に考え、14勝以下の星数や優勝同点以下は、考慮する必要がある場合にのみ、それらよりも幾分か軽視すべき要素として考えたい。
そして、全勝は通常優勝をほぼ伴うものと言ってよいから、優勝が基本的な横綱の成績であり、全勝はより高く評価されるべきであり、場合によってはそれ以外の成績も考慮する、というのが、私の考える正当性のある基準である。
優勝が横綱にふさわしい成績だとして、それが二場所というのは正しいだろうか。
昇進対象成績を二場所とする一つの説明として、実力を見るのにふさわしい場所が二場所である、という説明がありうる。
もう少し細かい説明もありうる。次場所の実力を判定するために最も参考になる成績は、最新の場所だろう。次に参考になるのは、その一つ前の場所だろう。時間をさかのぼるごとに、実力を判断するための寄与度が逓減していく。このような性質を逓減性といいたい。
そして、実力を判断するために無意味な程遠い場所は昇進対象成績とならない。
その実力判断のため意味がある範囲が昇進対象場所の範囲であり、横綱昇進においては2場所であるとするものである。
実力審査目的説には一つの疑問が生じる。それは、実力を見るのにふさわしい場所が二場所であるというのならば、全ての力士について二場所単位で番付を編成すればよい、ということだ。
この疑問に対する一つの答えは次のようなものだろう。
通常番付編成は一場所の成績に基づいて行われる、ということを前提とすれば、横綱は最高位であり降格のない地位であるから、その分慎重さを要求される。
このような主張は、単純な理屈としては不当だと思う。そのような不整合はいかなる地位においても起こっているが、それは毎場所の成績で上下動を繰り返す中で正常化される。特に横綱について、降格制度が無いことからこのようなメカニズムが働かないとするならば、降格制度の方を変えるべきである。慎重になることで実力が正確に判断できるのならば分かるが、1、2場所判断を伸ばしたところで実力が正確に判断できるようになるわけではない。
しかし、現実問題として横綱降格論は現実的なものではない。それをひとまず前提において議論することも許されるのではなかろうか。そして、横綱は降格しないということを前提に置いた議論では、このような慎重論も説得力を持つのではなかろうか。
その上で比較すべきは、昇進すべき成績をあげた力士を下の地位に置く不均衡という不利益と、複数場所を昇進対象成績とすることにより増加する実力判断の信頼性という利益である。
横綱にふさわしい成績を挙げているが慎重に判断するためにもう一場所見る、というとき、その一場所においては、横綱にふさわしい成績を挙げている者が大関に留まっているという不整合が起きているのである。
これを複数場所審査の逆転現象といいたい。
1-9-2-1-3 偶然性の主張
慎重論の背後には、「一場所の成績は偶然の可能性がある」という価値判断がある。これを、偶然性の主張と呼びたい。
これは、一致原則の例外と位置付けることもできる。一致原則は、ある場所の成績を次場所も残す、という仮定であるが、ある場所の成績が「偶然である」とすることで、次場所は同じ成績を残せないと主張するものといえるからである。
繰り返すが、偶然性の主張の結果、昇進対象場所が短期の昇進基準は否定され、程長期の昇進対象場所による昇進基準によるのであれば、複数場所審査の逆転現象が生じているといえる。
1-9-2-1-4 場所数の評価
後述のように、今回は横綱降格制度が無いことは前提としたい。そうすると、慎重論にも一定の合理性がある。
今後データを提示することもあるかもしれないが、私は、昇進対象場所を増やしたところで、そこまで実力評価は高まらないと判断している。だから、偶然性の主張には反対する。
基本的には、成績は一場所で判断すべきものとする。横綱や大関の昇進において複数の場所を昇進対象場所とするのは、優勝という横綱にふさわしい基本的な成績を1場所のみで判断すると、人数が適正でなくなるという人数的な調整の見地から必要であるものとする。
というわけで、実際に人数が適正になるかどうかを見てみたい。
まず、大関における一場所の優勝で昇進させるべきか。
させるべき、という論者はいないだろう。人数が過剰になる。
では、三場所はどうか。
横綱不在が27%、一横綱が57%、二横綱が16%。一時代を築いた力士のみが横綱になれる基準である。
このような横綱像を持つ方もいるだろう。
私としては、基本的に最強力士は横綱であるべきだと思っている。すなわち、できる限り一場所に一人は在位しているのが好ましいと考える。半世紀に一度、という場合まで横綱不在はあるべきではない、とまで徹底的に横綱がいるべきだとまでは思っていないが、不在が27%は好ましくないと思っている。
三場所はやや問題のある基準といえる。
次に、連覇の場合もみてみたい。
私は、連覇は徹底した明確性ある基準としても通用するものだと思う。
一横綱が43%、二横綱が39%、三横綱が13%。この人数は適正と言ってよいだろう。強い横綱がいると、なかなか次の横綱は誕生しない。だが、それが横綱というものではないかという感もある。
個人的には、連覇には、単なる優勝×2ではない固有の意義があると思っている。それは、順位で評価されない最低の成績が連覇だから、というものである。
角界の番付では、勝ち越しした場合は番付が降格しない、などの原則がある。他方、将棋の順位戦では、星数→順位の順でリーグ内の順位が決定され、その結果として、勝ち越しても順位が落ちることは当然ありうる。
さて、番付の上位16人に、このような順位戦のルールを用いて順位をつけたものを考えてみたい。このような順位で考えると、通常は成績が順位の昇降によって評価される。
しかし、優勝で1番になった者(優勝決定戦制度により1番であることが保障されているものとする)が優勝すると、順位の上昇はない。
このように、順位の上昇によっては評価し尽くせない成績を横綱とした、というものである。
何故三連覇ではないのかということ、大関までは必置原則により順位的な要素が強く残るということと整合性がつく辺りが好みである。
現実の昇進基準において、横綱昇進のための成績は、大関在位時の成績であることが求められている。この大関在位条件が正しいのかを考えたい。
横綱推薦基準の条件は、あくまで大関在位時における連覇である。
昇進において、一つ下の地位にある者から選抜するという発想も許されよう。その発想に基づけば、一つ下の地位の力士から選抜することも許されるだろう。
さらに、その力士の成績のうち、一つ下の地位にあった場所のみの成績で考えることは許されるか。
先の力士の選抜を超えて、更に、昇進対象場所も大関に在位している場所のみをみるということである。発想としては認められないものではないだろう。
関脇で優勝、大関に昇進して新大関優勝の場合も、横綱推薦基準を満たす「連覇」には当たらないことになる。
これは、同じ対戦相手からは同じ成績になるだろうから、成績から昇進すべき実力があるかどうかを考えるという原則からは、不当なところがあるかもしれない。
これも、現実との乖離をどこまで許容するかによるだろう。
横綱昇進基準に興味を持つ人間を妖しく惑わしてきた成績群は、明文規定の横綱推薦基準にあてはめれば、「準ずる成績」に当たるか否か、という議論だった。
このような「準ずる成績」には、下限が明確には規定されておらず、いかなる基準でも昇進する可能性がある、という意味で、上述した最低限の明確性を満たしていないという批判が可能だろう。
昇進対象場所が複数場所である場合に、昇進場所の成績をもっとも重視し、前場所、前々場所…と遡るごとに成績の重要性を低くしていく基準を、重みづけといいたい。
逓減性は基本的に肯定されているものだろう。だから、重みづけのある基準にするのが素直な帰結だろう。
重みづけのない基準にするのはどのような理由からだろうか。
まず、逓減性を認めたうえで、複数の場所の成績の交互作用により信頼性が高まるから、逓減が相殺されるという考えもあるかもしれない。また、n場所未満の成績のような小さいデータでは信頼性が低いという、慎重論からは、昇進対象場所を一単位としてみるから、重みづけはしないという主張もあるかもしれない。
確立したルールではないが、ときどき「綱取り継続」というパターンがある。12勝以上で昇進を見送られたの場合は概ねそのような扱いになる。
その当否を考えたい。
綱取り継続というのは、昇進問題において検討される場所が、2場所から3場所になる、ということになる。12勝する限り綱取りが続くというルールで考える。
このとき、直近2場所のみの成績でみているわけではないだろう。綱取り継続による場所で昇進した場合は、12勝と昇進場所の成績でみているのではなく、起点となる場所と前場所までの「12勝」による「綱取り」状態において、昇進場所で好成績をあげたという発想であると思われる。
なぜ1場所継続させるのか。昇進には足りないが、次場所昇進する余地はあるということだろう。
逓減性を前提とすると、綱取りとなる起点の場所の成績が消えず、何場所前でも考慮されるということは、2場所連続する交互作用と逓減が相殺されるという理解が整合的となるだろうか。
12勝の価値は前述した。もともとなぜ12勝が綱取り継続の成績とされたのかといえば、昔は協会側の感覚では昇進の下限となっていたからだと思っている。
玉の海や北の富士が協会に諮問されて見送られたときの星取を見ると、あの時代の協会は、12勝の次点プラス優勝でも昇進させることができると見ていた感がある。
さて、この綱取り継続論はどうみるべきだろうか。
起点の場所の成績がいつまでも残るというのは、不当であり、12勝綱取り継続論は不当である。
ただ、横綱推薦基準を前提とすると、それなりの合理性はあるように思われる。
原則は連覇という2場所で判断するのだから、綱取り継続論が否定されるということは、前々場所の好成績が全く反映されないことになる。
そのような判断もありうるとは思うが、そのように割り切れないという意見も確かにありうるだろう。
割り切れないというのならば、それは、n場所以内の成績で判断し、それ以前の成績は切り捨てるという単純な逓減否定論に反対するということだろう。
仮に、2場所の成績のみでは判断がつかないのであれば、もう一場所見るという発想は分かる。しかし、最低限の明確性ある基準を考え、両ラインを定めるという立場からすれば、2場所の成績で昇進可否の判断がつかないのであれば、その下のラインを昇進不当ラインとすべき、という発想になる。あえてもう1場所昇進対象場所を増やそうという必要性は乏しい。
基本的には否定すべきだろう。
双羽黒の引退以降、優勝経験が事実上の条件になったように感じられる。これも確たるものではなく、稀勢の里の昇進間際において、友綱審判部副部長が優勝は必須ではないと発言している。ただ、おそらくこれは審判部の総意ではない。時の二所ノ関審判部長は、審判部の比較的堅い見解であるところの、優勝と千秋楽まで優勝争い次点以上が綱取りにあたるといった意味の発言をしており、ここで優勝が条件であるのは当然である。
現実の昇進基準では、昇進不当ラインだとか見送り不当ラインだとかの区別をしていないが、ともあれ、概ね昇進対象場所といえるような場所に優勝がない場合に横綱昇進を認めるか、という議論がありうる。
これは、場所においてもっとも優れた力士という意味づけがない場合になお横綱たりうるか、という横綱にふさわしい成績をどう設定するかという問題になるだろう。
さらに、実際には、そのような昇進対象場所ではなく、最低1回の優勝経験が求められているように感じられないだろうか。
これは、双羽黒が問題視されたのが、優勝経験のない横綱という存在を失敗と評価したことから、そのような失敗を防止するために優勝を経験させてから横綱に昇進させようとしているものだと思われる。
これについては、昇進対象場所や考慮対象場所数を確定させるというスタンスを採った場合は、それ以前の成績を考慮するのは不当、ということになる。基本的には私はこの考え方なので、不当という結論になる。
横綱降格制度がないことの問題性は明らかだろう。
実力を示す番付の地位に降格が無いというのは不合理だし、人数の調整を図るうえでかなり障害となるものである。
しかし、これを認めるのは現実との乖離が大きく、現実的ではないだろう。