基準と成績によって、昇進するかどうかの判断が明らかになる程度を明確性とよぶことにする。
何故明確性が必要であるのかを考えてみたい。
昇進基準は、昇進や見送りという結果に説得力を持たせる機能がある。それは、ある優れた基準があり、それを適用した結果があるとすると、その結果も信用がおけるからである。
しかし、基準が明確でないと、結果が基準を適用したことによるものかどうかが分からない。だから信用を生まない。
基準を定める以上は、明確性が必要だろう。
ここでは、ある一定の水準の明確性のある基準のみを考えたい。
例えば、「連覇が原則だが、場合によっては連覇でも見送るし、連覇しなくても昇進させる」という基準があるとする。例外も許容するという意味で連覇を「目安」にするものといえる。
これでも、連覇というハードルが明示されている以上、明確性に全く欠けるものとはいえない。
しかし、以下のケースが発生してしまう。
ある場所で連覇した。しかし、例外にあたるとして見送られた。次場所、優勝して三連覇となった。しかし、例外にあたるとして見送られた。次場所も優勝して四連覇となった。しかし、やはり例外に当たるとして見送られた。
私は、このようなケースは不当であると思う。
その不当性の最大の根拠は、いかなる成績を挙げても昇進できない可能性があるという点にある。先ほどの「目安」という基準は、ある力士が昇進できる可能性がない、ということもありうる基準なのである。
ある力士がいかなる成績をあげても昇進することができないという事態が不当であるのは当然だと思われる。基準という以上は、いかなる力士であっても、最善の成績を挙げれば昇進することができることは明示されるようなものであるべきではなかろうか。
私は、ある地位に昇進する可能性のあること、また、その反対、ある地位に絶対なれない成績があることを明示することが、最低限昇進基準に求められる公平性だと思う。
だから、私は、昇進基準という以上は、「昇進してはならない成績」と「昇進しなければならない成績」を明確化したものであることを要求したい。
この二点が明確になっているという性質を、最低限の明確性と呼びたい。
このサイトで昇進基準を提示するときは、この最低限の明確性を満たさない基準の議論はしない。
後述のように、横綱にふさわしい成績を用いた基準が優れた基準である。では、その基準においてラインが二つあるというのはどういうことだろう。
正解のような説明としては、「判断要素が全て昇進すべき側に最大限考慮される場合に横綱にふさわしい成績に達するとみられる成績」が昇進不当ラインで、「判断要素がすべて見送りに最大限考慮される場合になお横綱にふさわしい成績といえる成績」が見送り不当ラインというものがあるだろう。これを、「判断要素の仮定的な全面的考慮」といいたい。
個人が提唱する昇進基準としては、当然後述する考慮要素に従い、他の要素を考慮してはいけないという前提の元に立っている。だから、原則としてはこの考え方である。
他方、判断要素に不当な目的が混入する現実を認めた上で、「不当な目的で昇進させても良い成績」が昇進不当ラインで、「不当な目的で見送ってはならない成績」が見送り不当ラインだという考え方もありうる。不当な目的というのは、典型的には人気力士を昇進させたい、外国人力士を見送りたい、というものである。
反面、基準の提唱者と運用者は異なり、提唱者の意図を離れるだろう。そのような場合を念頭において、判断要素の仮定的な全面的考慮では提唱者の意図した横綱にふさわしい成績と離れた判断が行われることを防止するため、より制限的に両ラインを定めることも許されるだろう。
恣意的判断の防止の考慮と呼びたい。
このような考慮から、昇進基準において複数のラインがあることも認められるものと思う。
これに対して、昇進するかしないかが明確に定まるような性質を、「 徹底した明確性」と呼びたい。
表現を変えれば、両ラインが一致するような基準が、徹底した明確性のある基準であるとも言える。
徹底した明確性ある基準は、公平性に優れているといえるだろう。また、後述のように、昇進基準はある地位にふさわしい成績のことである、とすると、その成績が変動するというのは不自然である。
このように、徹底した明確性のある基準は基本的に優れた基準であると思う。
しかし、基準における考慮要素の数が多いときは、基準の作成が困難になる、といえる。
基準でよく話題になるのが、水泳とマラソンの対比であるが、水泳のように、順位とタイムのみであれば、基準の作成は容易だろう。
翻って、昇進基準はどうだろう。
横綱昇進基準で重視されているのは、星数と優勝である。これはタイムと順位に対応するだろう。この二つを重視して昇進基準を作成する限りは、困難ではないのではなかろうか。
では、その他に考慮要素とされるのは何だろうか。
まず想起されるのが、横綱に在位している力士の人数、さらに横綱との対戦成績である。これで4つとなる。徹底した明確性を指向しても良いししなくても良いくらいの指標ではなかろうか。
さらに、将来性や相撲内容を考慮要素としたいのであれば、徹底した明確性を放棄する基準を指向することとなろう。
さて、以上に留まるのならば話は早いが、星数と優勝の指標も単一ではなく、複数用意されているように思われる。直近2場所の成績だけではなく、「安定感」を求める場合もあるし、優勝経験や優勝回数が考慮される場合もあるだろう。
大関で、33勝の他に連続二桁を求め、直近11勝以上を求める場合もそうである。
上述の横綱との対戦も、通算で考える場合もあるし、直近場所の対戦を考慮する場合もある。
このように、成績について複数の判断要素を用いる場合は、さらに徹底した明確性を追求するのは困難になっていくだろう。もちろん、追及することが否定されるわけではない。
このように、徹底した明確性ある基準は、柔軟性に欠ける代わりに、恣意性が排除される。裏を返せば、最低限の明確性を採用して多様な考慮要素を昇進において用いたいということは、昇進を決定する側、現実には協会や横綱審議委員会への信用が強い、ともいえる。