基準の結果導き出される客観的指標であり、基準自体がいかに説得力に富むものであっても、実際その基準を適用した結果、人数が過剰や過少なものになれば、その基準は不適当なものとなる。
降格基準の話になるが、勝ち越し降格論をときどき見かけるが、説得力は感じない。
なぜか。
この基準だと大関がいなくなるからである。
逆に、大関がいなくなるような場合はもちろん、大関が多すぎるのも好ましくない、というのは直感的には理解できるのではなかろうか。
このように、ある地位に力士が存在しない、ということも好ましくないし、大量の力士がいることも好ましくない。
ある地位には一定程度の力士がいることが好ましいのである。
そして、昇進基準を適用した結果、ある地位に力士がいなかったり、多すぎたりした場合には、その昇進基準には否定的な評価がなされるべきだろう。
すなわち、ある地位の人数は昇進基準の評価基準となりうる。
なぜ人数が昇進基準の評価要素となるのかを考えてみたい。
前提として、大関以下は東西一人ずつ必ずいなければならないものとされており、横綱にはそのような要請はない。これを必置ルールと呼ぶ。
このルールから、東西一名から乖離するのは好ましくない、となるのだろう。
では、なぜ必置ルールが設けられているのか。
それは、番付が順位表である、ということに起因するのではなかろうか。
すなわち、番付が順位表なのであれば、ある地位が不在ということは、その下の地位にある者が本来上の地位にあるべきなので、繰り上げれば良い。
また、ある地位が多すぎるのであれば、その地位内での順位が不明となるのだから、やはり順位表という番付の性質から好ましくない。
これに対しては、在位している者がいない場合、放置しても順位が明らかにならないわけではないから順位表という性質に反するわけではないという反論がありうる。
番付の一般的な性質として、空き家がある場合は下から昇進させるものであり、それが大関以上についても妥当する、という再反論が考えられる。これも順位表という性質ではあるだろう。
結局、順位表という性質から順位の空白という事態を好ましくないものという価値観まで導かれるか、というのが判断の分水嶺と思われる。
また、在位人数が多すぎる場合であっても、大関内でまた「何人目」という順位付けがされているのであるから、それにより順位表として機能している、といった反論がありうる。
横綱については、必置ルールが自明ではない上に、必置ルールは大関以下にのみ要求されているから、横綱昇進基準については要求されてはおらず、横綱や大関は単なる順位ではなくある一定の成績を期待されているという反論も考えられる。
これらの反論も成立するだろう。すなわち、適正な人数というのは絶対的な要請ではないのである。。
これは、後述の現実との乖離ということにも関連する。
ともあれ、必置ルールの価値観をあえて根拠づけるならば、以上述べたような番付の順位表という性質を理由とするのが最も説得力があるように思われる。
この、番付の順位表という性質から、さらに東西一名が原則であり望ましい、という判断も導けるだろう。
ある地位の人数は、昇進、降格、引退によって変動するものである。
よって、人数という尺度で基準の当否を図ろうとすると、降格基準も含めて考える必要がある。
したがって、降格基準も昇進基準論の範疇として扱う。