没食子酸鉄とタンニン鉄

昆虫は周囲の動植物を高度に利用した特殊な生態をもっており、そのライフサイクルは昆虫の種特有である。これは大変興味深いものが多く、ファーブル以前から昆虫の生態は人間の好奇心を引きつけ、時に人間に利用されてきた。人間にとって有用な色素と虫のかかわりについては、コチニールカイガラムシの作りだすコチニール色素(カルミン酸;カーマインレッド)が代表で、現在も広く用いられている。黒色についても、昆虫と植物の共同作業で作られた色素が古来より使われていた。

ある種の昆虫は、植物に刺激を与え、植物に奇形を作りださせ、これを利用することがある。これは「虫瘤(ちゅうえい、むしこぶ)」と呼ばれ、多くはその中に昆虫の幼生が棲んでいる。虫こぶをつくる虫は様々な種が知られているが、その多くはハエ、アブラムシ、そしてタマバチと呼ばれるハチの一種である。タマバチは主としてクヌギの仲間の葉を選択的に狙って卵を産み付け、植物はその周りに最大でピンポン玉ぐらいの大きさの虫こぶをつくる。この虫こぶの中でタマバチの幼虫は育ち、成虫になってその中から出てくる。この虫こぶには、植物の生産したタンニン分が多く含まれ、最大で70%に達する。このタマバチが作る虫こぶは「没食子(もっしょくし、ぼっしょくし)」と呼ばれ、タンニンの原料として利用された。

オークの虫こぶ (oak gall)。新鮮な時は緑なので oak apple とも。

大きさは様々だが、最大でもピンポン玉ぐらい。

中で育ったタマバチが出てきた穴があるが、インク原料とする場合は、ハチが出てくる寸前が良いらしい。

日本のナラメリンゴタマバチによる虫こぶ。

楢芽林檎五倍子(ならめりんごふし)という。

これも多量のタンニンを含む。

宮城県(2017年5月中旬)。

このタンニンは、グルコースを中心に没食子酸(3,4,5-トリヒドロキシ安息香酸)が最大5つエステル結合で結合し、そこにさらに没食子酸が縮合したもので、湯で煮ると加水分解し、より低分子量のタンニン酸コロイドに変わる。さらに加水分解されると完全に加水分解された没食子酸が溶け出してくる。これは三価の鉄イオンと強固なキレー トを作ることができ、これが漆黒の色素になる。この黒色は堅牢で、非常に耐久性が高い。仮に文字が薄れても、その薄れた部分に虫こぶ液を垂らせば文字が色濃くなる。没食子原料の黒インクは、紀元前5世紀ぐらいからギリシアでは知られていた。中東や地中海沿岸の生産品がヨーロッパに出回り、インク、着物の黒い染料、そして革をなめす時の必需品であった。シリアの都市の名にちなんで「アレッポ・ゴール」(ゴールは虫こぶのこと)といったが産地は多く、今でも地中海沿岸では僅かに生産されている。

水溶性タンニン酸の構造の一例と加水分解反応。

アレッポ・ゴールに含まれる水溶性タンニンは、グルコースを中心に、複数の没食子酸がエステル結合で結びつき、これにさらに没食子酸が連結している。

硫酸鉄と混ぜると、遊離した硫酸を触媒として加水分解し、没食子酸が生成する。

これらが鉄イオンとキレートを形成し、黒色化する。

赤で示した部分が鉄とキレート形成可能なo-隣接水酸基。

かつて万年筆の利用が多かったころは、この没食子酸鉄がブルーブラックインクに盛んに利用された。没食子を水に長時間漬け腐敗させるか煮るかして没食子酸を作り、これと2価の硫酸鉄(II) と混合する。没食子酸鉄 (II) は無色の化合物で、1,2-ジヒドロキシベンゼン部位が鉄イオンとキレートを形成しているが水によく溶ける。これが空気酸化すると3価の鉄イオンに変わり、不溶性の真っ黒の色素を作る。ただし、無色のインクでは書きづらいことこの上ないから、サポートに青色染料を入れた。すると、書きはじめは青色で、空気酸化すると真っ黒になるインクができる。一度酸化してしまうと、この色は滲むことも薄れることもない。このインクの耐久性の高さを信用し、かつては公的書類のサインにこのインクが指定されたらしい。ただし、精製没食子酸のみの鉄錯体はインクの粘度が低く、粘りを出すためにはより高分子量のタンニン酸がいる。しかし、タンニン酸はいろんな不純物が入っていて品質管理が難し く、ペンのインクが詰まりやすい悪癖がある。ブルーブラックインクを用いた万年筆は詰まりやすく、使用時に振ってしばしばインクが撒き散らかされる事故が起こった。美術館では、観覧者の万年筆利用を極端に嫌った。

この没食子酸鉄の空気酸化を利用したブルー・ブラックインクは、インク壺や万年筆中で酸化が起こるという宿命に近い欠点を持っているので、万年筆メーカーは盛んにこれを改善しようとした。また、没食子酸は弱酸であるが、硫酸鉄と没食子酸との反応では遊離した硫酸が生成する。これは鉄などの金属を腐食させるクセが強く、ペンの材料を選ぶ。そのため昔から万年筆はエボナイトの軸に、金合金のペン先、イリドスミンのペン先ポイントという3種の材料の組み合わせが必須だった。酸に極端に強い材料でないと、万年筆が作れないらしい。

文字で記録を残すという人類独特の作業には、古くからこの植物と虫の共同作業による虫こぶから作り出されたタンニン鉄がとても大きな役割を果たした。しかし、より優れた色素を利用したインクが開発されるようになると、酸化変質していくブルーブラックインクはあまり使いやすいとは言えず、その利用は大きく減ってしまった。現在では、数社のみがこの古典的なインクを販売している。

日本では、ヌルデにアブラムシ(ヌルデシロアブラムシ、Schlechtendalia Chinensis)が作る虫こぶを「五倍子(ごばいし、ふし)」と言って、やはりこれもタンニンを50%近く含むため、鉄イオンとの不溶性黒色キレートを作らせ、着物などの黒染めに古くから使っていた。

ただし、日本や中国では、黒色顔料としてはカーボンブラックが愛されていたので、染料・顔料としてのタンニン鉄類は柿渋と五倍子を除きやや影が薄い。お歯黒という風習もまた、五倍子と鉄との反応を利用したもので、これもタンニン鉄の高度利用と言えよう。

歌川国貞画「化粧三美人」(Wikipedia Commons よりパブリックドメインの絵を借用)。

お歯黒で歯を黒く染めている様子が描かれている。

お歯黒はヌルデの虫こぶである五倍子と鉄で作られ、これもタンニン鉄の黒色である。

現在の美的感覚からすると奇妙な風習であるものの、虫歯や歯石、歯周病の予防という側面もあった。

条件を選んで没食子酸と3価の鉄塩を反応させると、結晶質のキレート化合物をつくることができる。これは、無限に連なる骨格構造を持つ有機-無機構造体であり、いわば今でいうところの MOF (metal-organic framework)である。ほとんどの場合は非晶質ネットワークであるとはいえ、紀元前から使われたインクの分子構造に MOF のエッセンスが入っているのは、不思議な感じがする。

(注記:薬学の方では「没食子」は「もっしょくし」と読むが、化学では「ぼっしょくし」と読む傾向が強い。学術用語集化学編では「ぼっしょくし」になっている。)