最も稀少な青 -ヘブライの tekhelet-

イスラエルの国旗が青の上下のストライプと六芒星(ダビデの星)で描かれていることからもわかるように、ヘブライ文化では、白黒と並び、青が重要視される。本来のヘブライの青は、tekhelet と呼ばれる色で、これはヘブライ語でのターコイズ(トルコ石の青)または青を意味している言葉である。これは世界で最も貴重な色として、ごく限られた人しか用いることができなかった。この色は、ヘブライ聖書には実に49回も出現する。神に選ばれた色、「聖書の青(Biblical blue) 」の別名は、ここからきている。ユダヤ人は身体のどこかにこの青を付けるため、これはまた第二次世界大戦中にユダヤ人の不幸の原因にもなった。

ユダヤの正式な礼拝の際には、布の肩掛けを着用する。この肩掛けはタッリート(タリート, tallit)と呼ばれ、この四隅には紐を編んだツィーツィート (tzitzit) と呼ばれる羊毛で編まれた紐の房が付いており、これは普通青い染料で染められる。この青い染料が tekhelet である。この tekhelet と呼ばれる青い染料は、1300年ほど前にレシピが霧消し、ずっと謎であったが、約百年ほど前に貝紫由来の青であることがつきとめられた。

貝紫はアクキガイ科の貝の鰓下腺(パープル腺)にたまるチリンドキシルエステルを利用し、チリアンパープル(6,6’-ジブロモインジゴ)を生成させる染色法である。これは非常に古い染色で、地中海沿岸のシリアのチレを中心に技術が確立し、海から大量の貝が採取され、極めて貴重な紫染料であるチリアンパープルが利用された。この色素はあまりにも少量しか採れないので、王や司祭などの最上位の富裕層しかこれを用いることができず、かつ強力な権力者がこの色の囲い込みを行ったので、帝王紫とも呼ばれた。

地中海における貝紫による染色には数種のアクキガイ科の貝が用いられる。もっとも色が鮮やかなのがシリアツブリガイ Bolinus brandaris (Murex brandaris) で、次いで ツロツブリ Hexaplex trunculus (Murex trunculus) が採取された。前者に比べて後者はやや大きくなり、その分だけ鰓下腺も発達しやすいが、鰓下腺の中には色素前駆体であるチリンドキシルエステルに、臭素を含まないインドキシルエステルが若干混入しているために、やや青みを帯びた紫になる。これは、貝紫の色素成分である 6,6’-ジブロモインジゴと同時に、6-ブロモインジゴおよびインジゴが生成することを原因とする。これは、日本では、イボニシなどを使ってその鰓下腺から貝紫の染色をすると、紫の周囲に青がにじむことからも想像ができる。

ツロツブリ Hexaplex trunculus.地中海(ギリシャ)産。

最近、ユダヤ人によりこの稀少な青、tekhelet の製法の動画が公開された。これによると、一度貝から鰓下腺を取り出し、これの建て染めでロイコ体を作り、この時に強い光を当てているのが確認できる。tekhelet の青はイカの色素である、あるいはプルシアンブルーであるなどの諸説があるものの、現在では貝紫からつくる、ということで意見の一致をみたらしい。ヘブライ文化が最上視した tekhelet の青、これは地中海の青と、燦々と日光のふりそそぐ快晴の空の青をいただいた色でもあるのだろう。

貝紫の色素成分である6,6’-ジブロモインジゴを建て染め(バット)染色していると、時に鮮やかな青色が発現することがある。これは、バット染色においては6,6’-ジブロモインジゴの還元生成物のロイコ体(ロイコチリアンパープル)が紫外線に弱く、光照射で段階的に脱臭素化反応を起こし、6-ブロモインジゴを経てインジゴを生じることによる。tekhelet の青は、どうやらこの色に基づくものらしい。色味からすると、ツルツルのインジゴに若干6-ブロモインジゴが混ざっているような感じだ(インジゴは藍色、6-ブロモインジゴは紫だが6,6'-ジブロモインジゴよりははるかに青っぽい)。

案ずるより産むがやすし。実際に日本で手に入りやすいアカニシを使って行ってみた。アカニシを割って鰓下腺を破り、黄色い分泌物を絹に摺り染めしてみると、太陽光の下ではみるみる変色し、いわゆる貝紫染めができる。この布を、太陽光の下でアルカリ性水溶液とし、これを亜ジチオン酸ナトリウム(バット染色でよく用いられる還元剤、ハイドロサルファイトナトリウム、あるいは単にハイドロとも)で還元し、これを酸素酸化してみると、還元の状態によって紫みの強い青から、ターコイズブルーまで作り出すことができる。

貝紫の摺り染め(上)と、繊維上で太陽光の下でバット還元し、酸化することで生成する tekhelet の青。

貝紫(左)から、様々な還元の程度により生じる tekhelet の青。

左から2番目は、おそらくモノブロモインジゴもかなり含まれているものと思われる。

一番右の布は、貝紫色素を採り出し、これを試験管中で還元してバット浴を作り、

これを直射日光に晒して、その後絹を染めたもの。

しかし、なんでわざわざ帝王紫と呼ばれる高貴な紫色素の6,6’-ジブロモインジゴから、わざわざどこにでもある単なるインジゴベースの染料にしてしまうのか。実にもったいない感じがする。インジゴの分子構造がわかったのははるかに後の話ではあるが、染色技法からその二つが同一である、というのは想像がつきそうなものなのだが。ヘブライでは貝紫が嫌いなのか、モノブロモインジゴの混じった独特な青をユダヤでは好むのか。あるいはインジゴを含む植物が足りていなかったのか。ここがよくわからない。インジゴは生体中でインドールから生合成されるので利用が容易で、その青よりもむしろ堅牢な紫のほうがはるかに貴重であるはずなのだが。

日本における貝紫の利用としては、明治14年の「三重県水産図解」に、志摩の海女が貝紫で描かれたセーマンドーマン紋様の手拭いをかぶった絵があり、伊勢志摩では海女が貝紫を利用していたとされる。しかし、「三重県水産図解」における紋様は、よく見ると紫ではなく青で描かれている。なぜ青で描かれたのか。もしかすると、伊勢志摩の海女が、仕事の合間にイボニシを割って染めたまじない紋様は、遠く離れた地中海の tekhelet と同じく、インジゴや6-ブロモインジゴを含んだ貝の青なのかもしれない。

六芒星がトレードマークのヘブライ文化の大事にする青が、五芒星がトレードマークの平安時代の陰陽師、安倍晴明にちなんで描かれる魔よけのおまじないと、色素成分と製造法がほぼ同じというのは、なにか不思議なつながりを感じる。

しかし、tekhelet の青は、化学的には貝紫色素のジブロモインジゴが脱臭素化した母体インジゴの青でもある。インジゴは日本では蓼藍や琉球藍より古くから利用されている非常になじみ深い青であり、これはその後、BASF らをはじめとして工業化に成功し、何千トンという単位で工業生産が可能な、現在では最も安い青色染料である。科学の発展は、最も稀少な色とされる聖書の青 tekhelet が、最も安価な染料と変わらぬものであることを明らかにしてしまった。科学とは実に冷徹なものである。

(文献)

(1) R. C. Hoffman et al., Magnetic Resonance in Chemistry., 2010, 48, 892-895.

(2) B. Sterman, "The rarest blue. The Remarkable Story of an Ancient Color Lost to History and Rediscovered", Ptil Tekhelet; 2nd edition (2017).

(3) B. Sterman の著者サイトが情報が多い。

(4) Joseph Heller, "Sea Snails: A natural history"pp. 300-303, Springer; 2015.