プルシアンブルー

試験管中で生じたプルシアンブルーの沈殿。

プルシアンブルーは、分散性の高いナノメートルサイズの固体で、大変濃い藍色である。

色が非常に濃く、他の色を食ってしまう扱いづらい色でもある。

小説「フランケンシュタイン」はイギリスの小説家メアリー・シェリーが1818年に公表したもので、スイス人科学者のフランケンシュタインが理想の人間を作りだそうと墓をあばき死体を改造して、結果として怪物を作りだしてしまうというストーリーである。この、若い科学者にはモデルがいることをご存じだろうか。この小説のモデルとなったドイツ人錬金術師ディッペルの差し出した不純な試薬を用いたセレンディピティ的な発見によって、今日、世界でもっとも多く生産されている青色顔料が見いだされた。プルシアンブルーである。

1704年ごろベルリンの染料業者(もしくは染料屋と言われている)のディースバッハの同室にいたディッペルが、ディースバッハの作っていた赤いコチニールレーキ顔料(注1)合成に不足した「アルカリ」を貸して渡し、硫酸鉄などと混合したところ、予期せぬ鮮烈な濃青色を呈する顔料ができた。これは、ディッペルの不純な回収アルカリに基づいている。ディッペルは生気説にとりつかれ、動物の組織の乾留を行い、民間薬などを製造していた。動物の組織にはタンパク質をはじめ窒素を含む有機化合物、そして赤血球に由来する鉄分が含まれ、これをアルカリと共に強熱すると熱分解して黄血塩(フェロシアン化アルカリ)ができる。これが、同時に混合された硫酸鉄と反応し、プルシアンブルーができたのだ。同じく青色色素の代表である藍が植物染料の代表なのとは好対照に、プルシアンブルーは動物成分の成れの果てである。

本サイト別ページに、ディッペル・ディースバッハ法の改良追試による豚レバーからのプルシアンブルー合成がある)

その頃はまだシアン化物は知られておらず、シェーレはディッペル法により得られるプルシアンブルーをアルカリで分解して黄血塩に戻し、これをさらに分解させシアン化水素とシアン化カリウムをはじめて得た(1782年)ようだ。現行の合成法とは逆である。日本語の「青酸」の由来は、プルシアンブルーから合成できる酸、という意味である。シェーレはここからシアン酸塩、ついで尿素を合成し、有機化合物が無機化合物から合成可能であることを証明したが、その原料は他ならぬプルシアンブルーであった。

プルシアンブルーの製造はしばらく非公開であったが、その合成が公開されると、各国が競ってプルシアンブルーを大量生産した。ドイツ、イギリス、ベルギーの生産量は大きく、世界中でこの新しい青色顔料を求め、それらの国から輸入した。プルシアンブルーの名は、プロシアの青という意味である。

日本へのプルシアンブルーの導入は、江戸末期であった。最近の調査では、宝暦年間(1750年代)に長崎出島にオランダ貿易船が脇荷(船員が個人的に持ち込む少量の荷物)で輸入したということがわかっている。平賀源内は「物類品隲」(1763)でこの青を紹介し、「西洋婦人図」に彩色し絵画に用いた。源内は「ベレインブラーウ」という名でこの西洋の青を紹介し、コバルト化合物(回回青)だと考えた。これほどの強い青は当時の天然顔料には無く、西洋の科学の匂いのする鮮烈な青は、まさに新しい時代を感じさせたのだろう。当時まで「紺青」という名は塩基性炭酸銅である藍銅鉱(アズライト)に用いられていたのだが、プルシアンブルーにその名は奪われてしまった。

「物類品隲」(1763)に見られるベレインブラーウの記述。

密度が小さいところに気付いたのはさすが源内である。

ごく最近の研究により、伊藤若冲による絵画「動植綵絵」のうち「群魚図」(1766) のルリハタを描いた部分が、日本で最初に絵画に用いられたプルシアンブルーだということがわかった。源内にせよ若冲にせよ、当時の貴重な顔料を利用しての絵画である。そのうち、出島から多くのヨーロッパからの貿易品にプルシアンブルーが含まれるようになり、さらに中国生産のプルシアンブルー(チャイニーズブルー)が輸入されるようになると、浮世絵に多く用いられるようになった。葛飾北斎や広重の用いる青は、プルシアンブルーによるところが大きい。プルシアンブルーは三原色の一つである青の極めて濃い色材で、種々の混色の機軸として用いられたようだ。北斎による絵画術指南書、「画本彩色通」(弘化四年(1851))には、べろ(古いプルシアンブルーの呼び名)以外にも、べろと黄色系顔料(雄黄など)と混ぜた緑色「あわせぐさ」、さらにそれを弁柄と混ぜた茶色、ラックダイに混ぜた紫など、青のバラエティのみならず多くの混色が記述されている。

葛飾北斎 富嶽三十六景 深川万年橋下

広重や北斎の版画(浮世絵)には、プルシアンブルーが多く使われている。

プルシアンブルーは強い着色力を有する青色顔料で、透明感があることから空や水、夜の闇の表現に多く使われた。

富嶽三十六景には、藍の青とプルシアンブルーの青が巧みに使い分けわれている。

藍はゆっくりと黄変するが、プルシアンブルーはまったく褪色しない。

浮世絵にプルシアンブルーが多く導入されるようになったのは、天保年間 (1830-) からである(文献)。

伊藤若冲「動植綵絵」のうち「群魚図」(1766) のルリハタの部分(左下)。

ルリハタは鮮やかな青色の体の暖海に棲む魚で、若冲はこの南国の匂いのする魚を、

当時国内に輸入されたばかりの西洋の青で描きたくなったのだろう。

プルシアンブルーの国内生産が最初に行われたのは、京都の某が安政年間 (1854-1860)に鯖江藩に売り込みに行った記録が残っている。これは、シアン化カリウムと鉄塩を原料としたもので、実際に大量生産に結びつかなかったのは、シアン化物の入手の困難さによるものだろう。

明治期に入ると、紙幣寮(後の大蔵省印刷局、今の国立印刷局)でプルシアンブルーの試験生産が行われた(明治10年, 1877年)。活版印刷による国内での紙幣印刷の必要が生じたためである。最初のレシピでは、外国人技術者アンチセルの指導をもとに、廃膠を動物性原料にしている。その技術は民間に移管され、明治13年には光明社(現在の日本ペイント株式会社)が生産を開始した。明治のあいだは国内生産と輸入分で需要を賄ったが、安価で高品質な輸入品に依存するところが大きく、あまり国内生産はふるわなかった。ところが、第一次世界大戦で海外からの輸入の供給不安が影響を落とすようになると、いよいよ国内生産の重要性が高まった。明治末から大正時代になると、カルシウムシアナミドをはじめとした窒素固定技術が紺青合成に応用され、国内生産量は急増した。日本での合成初期は、黄血塩(フェロシアン化カリウム)を用いていたが、第一次世界大戦でカリウムの輸入供給が途絶えると、対イオンがアンモニウムイオンであるフェロシアン化アンモニウムを原料として用いたため、若干化合物が変わってくる。後者で作られたものを「アンモニウム紺青」という。これは、現在でもそのまま引き継がれている。明治~大正期に国内で行われた動物性含窒素化合物からの黄血塩製造、およびカルシウムシアナミドからの黄血塩、さらにそれを原料としたプルシアンブルー製造のノウハウは、化学工業全書第一冊に詳しい。

顔料目的ではないが、プルシアンブルーが予期せず生じることもある。室内にシアン化物、特にシアン化水素発生源があると、周囲の鉄製品表面でプルシアンブルーを生じ、青変する。日本では第二次世界大戦中、瀬戸内の大久野島でシアン化水素(青酸ガス)を製造し、これを投擲弾に仕込んだ。この剤を作っていた工場は、何人もの中毒者を出し、多くの人が漏洩した毒ガスで死に、後遺症で苦しんだ。工場の鉄製品は漏洩したシアン化水素により生じたプルシアンブルーで青く変色し、ガス検出に用いたジュウシマツはあっという間に死んでしまったと言われる。また、大戦中のナチスドイツでは、ホロコーストに毒ガスを用いた。ティクロン B という名の農業用燻蒸剤を毒ガス室に持ち込み、それから青酸ガスを発生させたが、壁は鉄分とシアン化水素が反応してプルシアンブルーを生じ、青く染まった。今でも、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所では、青く染まったガス室が見られる。

プルシアンブルーは、シアン化物イオン CN- が、両端を鉄イオンに橋掛けして井桁状の三次元格子を形成した難溶性塩で、典型的な結晶性無機高分子である。プルシアンブルーの発色は、骨格を構成する二価および三価の鉄イオンの原子価間の電荷移動に基づく 700 nm 付近の強い吸収による。これは、着色力、隠蔽力共に極端に大きく、他の顔料とは桁違いに強い色である。耐光性に優れ、化学的安定性も高い。酸には強く、アルカリとはゆっくりと反応する。耐熱性はあまり高くない。有害性もほとんどないが、シアン化合物に分類されることがあり、法規制を受けることがある。鉄と錯イオンを形成しているため、一般のシアン化合物とは挙動がまったく異なる。

プルシアンブルーは、典型的なナノメートルサイズ粒子であり、その粒子サイズに基づく高い液分散性を示す。合成法によっては格子の内部にカリウムやアンモニウムなどの陽イオンを収めたものを合成することができ、このタイプのプルシアンブルーは見かけ上可溶で、全く沈降しないため、溶液と同じように扱うことができる。また、その三次元のカゴ状構造のため、特異なイオン・分子捕集能を示す。例えば、セシウムイオンはプルシアンブルーに特異的に捕集されることから、放射性セシウム捕集剤として検討されることがある。タリウムもまた、強く捕集される。機能性材料としての側面が強い。青色顔料の代表として、様々な着色用途に持ちられるが、最も多用されるのは、印刷インキである。

近年になり、比較的剛直な多座配位子を金属に配位させることにより、三次元の有機-無機多孔質構造体が生成し、この空隙を利用した研究が急進している。これは、MOF (metal-organic frameworks) と言われ、従来のゼオライトのような多孔質材料よりはるかに空隙率が高く、その物性も多様である。これらの物質の構造モチーフは、あの偶然により生成した青色顔料、プルシアンブルーである。

(文献)日本無機薬品協会編,日本無機薬品工業史,昭和37年12月.

日吉芳朗,「プルシアンブルーの化学」,化学史研究、23, 54-67(1996).

「西洋の青 プルシアンブルーをめぐって」,神戸市立博物館特別展目録,2007年.

佐々木静一,「近世(十八世紀後半以降)のアジアに於けるプルシャン・ブルーの追跡」,多摩美術大学研究紀要,第2号,13-23ページ (1985).

Alexander Kraft, "On the Discovery and History of Prussian Blue" Bull. Hist. Chem., 33, 61-67 (2008).

(メモ) 鶴見大学 石田千尋先生の鶴見大紀要はこちらから閲覧可能。江戸末期の日蘭貿易の有用な情報が多い。

(注1)フローレンスレーキ:コチニール(もしくは少量のブラジルウッドを加える)と明礬(少量のスズ塩を加えることがある)から作られる真紅のレーキ顔料。しばしばアルミナ微粉末を体質顔料としてコチニールを固定化したものも含まれる。通常はコチニールレーキの担体は酸化アルミニウムで、鉄はむしろ混入を避けるのだが、ディースバッハのレシピでは硫酸鉄とアルカリから水酸化鉄として、これを担体にコチニール色素を担持させていたようだ。これでは水酸化鉄 (III)の赤とコチニールの赤が混じったレーキが出来るはずなのだが、このレシピが普通なのかどうかはわからない。もしかすると赤の水増しレーキ顔料なのかもしれない。

(プルシアンブルーの結晶構造解析)

H. J. Buser, D. Schwarzenbach, W. Petter, A. Ludi, Inorg. Chem., 1977, 16 (11), pp 2704–2710.