昭和40年代、ミヤマレストランの中華にいた
藤倉さんと懐かしい会話を楽しむ

Mr. Fujikura was a chef of authentic Chinese cuisine in the 1960s.

昭和の残り香 信沢あつし

2022/12/04 Smell of oldies. A.Nobusan

2023年12月3日は、'65 VWビートルに乗って「洋服の青山」に行き、冬用にジャケットとコートを買った。ジャケットは大変良いものがすぐ目に入った。価格を見ると半額ぐらいになっていて、私に買ってくださいと言っているようだった。コートは「ブラックフライデーコーナー」などと云うところにあって、こちらも半額程。こちらもずらりと並んだ中の異色の存在で、すぐに目に留まった。それと一番安いベルトを2本。会計ではいずれの商品も青山のカードだかなんかで更に割引。そんなわけで、良い上着を二着、気軽に買ってきた。

買い物が終わると昼食へ。今回は、西片貝方面、「藤倉食堂」か「焼肉天国 赤坂」方面へ。藤倉食堂は息子さんの車が止められているだけだったから、お客さんはいないだろうと隣にビートルを止める。前回は7月27日だったので半年ぶりである。ただ、コロナの時期は殆ど寄っていなかったから、今年は久しぶりに寄っていることになる。

「キリンビールください」というと、オヤジさんは苦笑い。「前はいつもあったんですけど、今は…」と言うので、「アサヒでいいです」とこちらも笑いながら応える。

食事は「ラーメン」にした。家を出る前「そういえば藤倉食堂でラーメンを食べたっけ?」「メニューにはあるよね」と話しをしていたからだ。えりこさんはメニューを見て「500円だよ」とニコニコして「ラーメン二つと餃子一つ」を頼んだ。

そうこうしていると、息子さんが駐車場の車を移動して行った。

ビールを飲み始めて、少しすると餃子が出てきて、すぐにラーメンも出て来た。ラーメンは想像通りの昔ながらの中華そばであり、シンプルな美味しさ。昭和世代の我が夫婦の好きなラーメンだった。餃子も熱々で久しぶりに美味しく餃子を食べた気がした。

食事が終わる頃になって、私が残りのビールを飲みだすと、いつもの様にオヤジさんがやって来た。「あの車は、いつものと違いますよね」、「いや一緒ですよ」というと、「いつものは50何番ってかいてあったじゃないですか」とのこと。「はい、白いやつですよね。もう一台あるんです」。「品川5って古いですね。」というので、「いや、品5なんです。品川になる前の。1964年11月登録なので東京オリンピックの頃のですよ」と当時の自動車の話になった。

藤倉さんは「あの頃は自働車は少なかったですね。私が免許取ったのが昭和44年で、その頃に皆免許を取って乗り出した。私のオジサンなんか、その頃40歳ぐらいで免許を取ってね」と話し出した。「うちの父親が免許を取ったのが昭和41年で、その頃に一日ドライブをして帰ってくると、『日産サニーを何台見た』って、台数が数えられるぐらいしか走っていなかったんですよね」。「だから、車乗っている人も自分のじゃなくて、会社の車に乗ってましたよ。」と藤倉さん。「そういえば、私のオジサンも、その頃は会社の営業車を自家用車の様に乗ってました。横に『ピヨピヨラーメン』だか『サンヨー食品』って書かれていて」と私。

「サンヨー食品ありましたね。すぐそこに」と藤倉さんが話したので「サンヨー食品は玉村の酒造の人が買ったんですよね」と私が言うと、「いや、あれは前橋の『泉屋』さんの関係ですよ」という。そういえば玉村の酒造は『泉屋』である。「私の兄が泉屋で働いていまして、そう聞きましたよ。だからピヨピヨラーメンとか食べ放題で。」なるほど、玉村の井田酒造は現在は「泉屋酒店」で、そのルーツが前橋の泉屋だったのだろう。

「泉屋さんは馬場川通りを東に行ったところにあってね」と現在の東和銀行の裏辺りだったようだ。当時は忙しくてお兄さんは水上の方までお酒を運んでいたそうだ。


「当時は、前橋の街も賑やかだったから、酒屋も栄えたでしょうね。おやじさんもミヤマレストランで働いていたんでしょ」と言うと、「そうそう良く知ってるね。前も話したっけ」と藤倉さん。私がミヤマビアガーデンの話をすると、最初は2階建で、その屋上でやっていたとのこと。私のイメージしたミヤマとは違うが、昭和47年のあさま山荘事件の頃に今の建物に建て替えたのだそうだ。あさま山荘で登場した鉄球と同じような鉄球で解体したのだとか。きっと2階建ての時代だろう「ビアガーデンのビールはね、気の樽でね、滑車があって道路から吊上げていたのですよ」と面白い話もしてくれた。

2階建ての時は、1階に駐車場はなくてレストラン。西の端、通り沿いには高校生向けに焼きそばなど簡単なものを売るコーナーがあったのだとか。私が初めてスパゲティを食べたのはミヤマレストランで、親戚が集まっての食事だったが、あの時は1階の入口を入ってすぐ右手の広いテーブルだった。寒い時期でコートなどを着ていたが、日当たりが良くてそれを脱いで、窓際で従兄弟同士でふざけて遊んだの思い出す。ギャーキャーと時間を忘れて騒いで、気付いたら子供たちが頼んだスパゲティだけ出てきていなかった。母親が店員に聞くと「忘れていた」とのことで、あれは本当に悲しくなった。レストランで悲しくなった初体験でもあった。

「2階は宴会をするところでね。だいたい中華でしたよ。厨房は一階にあって、中華と洋食と別でありましたね」とのこと。「私は4、5歳の頃に2階の通り沿いでのところで、初めて『エビチリ』を食べたんですよ。私が美味しいと食べるから、周りのお姉さんたちが皆で皮をむいてくれて」と母親の仕事の宴会の時のことを話すと、「エビチリね。そうそう、何でだか知らないけど、当時は皮ごと料理していてね。私も不思議に思ったけどね」と藤倉さん。

私の父親はバンドマンだったから、ミヤマのビアガーデンでも演奏していて、その関係だろう。ちょっと高級なミヤマレストランで食事もしたのだった。

東福寺にはこの参道に小さな山門があったが、これは東日本大震災の後だっただろうか、解体されており、寂しさに拍車がかかった感じがした。

「『赤かんばん』にもレストランがありましたね。あそこも父親がバンドで出ていたのかもしれません」というと、「赤かんばんにもレストランがありましたね。屋上があって。そこに10円を入れると出てくるジュースがあって、それを飲んだ覚えがあります」とのこと。前橋で初めてのエスカレータが赤かんばんと話してくれた。

向いには、その後の「スーパーマツセー」の前身の「松清」があったのだとか。裏はパチンコとダンスホームの「第一会館」だったが、それは良く覚えていなくて、「国道17号寄りの」と言い出すので、私が「モンパリとか、モンテカルロですね」と教えてあげる。

そんな話をすると「モンパリは高級だったね。それと前橋には私なんかが入れない高級なキャバレー『道頓』ってのがあったんですよ。入ったらいくら取られるか分からなくて怖くてね」と言い出したので、うちの父親はモンパリと道頓でバンド演奏をしていたと話す。「たまたま先輩が道頓の無料チケットを手に入れてね」それで二人で入ったのだそうだ。2階席が安かったようで、そこに案内されたのだそうだ。ところがその晩のゲストが『小林幸子』だったとか。まだ売れる前で、普通のクリスマスソングを歌っていたとか。「そのあと売れるとはね~」と嬉しそうに話す。

私は父親や母親に連れられて月に1回ぐらい、夜の街、モンパリや道頓などに連れていかれた。就学前の事である。モンパリが一番多かったと思う。モンパリには入口にピンボールマシンやボーリングのゲームがあって、ダンス中、バンド演奏中はお兄さんやお姉さんが一緒に遊んでくれた。そして、毎晩ショーがあり、ゲストで来たので覚えているのは、東京ぼん太、東京コミックショー、早野凡平。その中でも東京コミックショーは面白かった。当時は3人組で、若い一人が黒子になってヘビをやったり、ナイフ投げの的の裏からナイフを出していた。

昭和40年ぐらいになると「ロンドンとか、ハワイとか、安い、料金も何時から何時はいくらって書いてあってね。私らもキャバレーに行けるようになったんですよ」とニコニコと藤倉さん。それまでは「いくら取られるか分からないから」夜のお店には入れなかったのだそうだ。

まあ、何度かミヤマ時代の話を聞いたことがあったが、今回ほど発展したことはなかった。

美味しいラーメンと、美味しい餃子と、楽しい思い出話を楽しませていただいたのだった。

桂萱小学校のほぼ向い。赤い文字の「ブシクラ食堂」を目にした人は少なくなと思う。ほぼ毎日暖簾はでているのだが、ちょっと怪しくて入れない店ではある。私もそう思っていたのだが、ミヤマレストランで鍛えた中華の料理人がやっている安心して食べられる大衆食堂なのである。

気になっている人は、是非一度寄っていただきたい。