千代田町界隈
甘太郎焼きを買って青井食堂へ

Walk through the streets of Maebashi, where old vestiges remain.

昭和の残り香 信沢あつし

2022/09/18 Smell of oldies. A.Nobusan

2022年9月17日、台風14号が九州に接近している中、土曜日の遅いお昼は、いつもの昭和が香る青井食堂である。

前橋八幡宮の前にあるミカドで煙草を買うと店の奥のカレンダーが目にとまる。"Wall Clock and Yoko Ono"の昭和を感じさせる写真だ。本当は"John Lennon"だが、控えめな彼は掛け時計の向こうに隠れている。

国道50号線を渡り、東和銀行の東側の坂を下る。お袋さんに「甘太郎焼きはまだやっているんかい。やってたら買ってきとくれ」と言われていたからだ。

坂を下ると千代田町に入る。中心に銀座通りが横切る歓楽街だ。スナックや居酒屋の看板が目につくが、今は閉めてしまった店も少なくない感じである。まあ、このようなところは、昼間と夜とでは光景が一変するのであるが。

絵柄的に私が好きなのは「季節料理つくし」という看板を掲げた、写真の店である。もう閉めてしまっていると思うが、閉めた時に草木を刈ったが、格子に絡まるように延びてしまった木が、ややこしいところを残して切られている。

その並びの「桜寿司」の看板の店も気になった。店の前の植え込みが入口を塞ぎそうなぐらいに延び、看板の「桜」の文字も隠そうとしていた。

昔は、この辺りには何軒もの寿司屋があったのだろうと思った。近所には「金鮨」があった。私の父親のお気に入りの寿司屋だった。バンドの仕事が終わると時に金鮨に寄り、寿司の折り詰め買って帰って来てくれた。テレビの「11PM」の時間であるから12時前後だった。

「あっちゃん明日になると美味しくなくなっちゃうから、食べたいものだけ食べな」などと起こされて食べたのである。当時の前橋の寿司は美味しかった。

そんな中に「甘太郎焼」はある。昭和40年頃には弁天通りにも支店があったが、今はこの一店舗のみである。今でも当時のおじさんが餡子を煮て、甘太郎焼を焼いている。近所の八百屋や、スーパーにも卸してはいるようだけれど、果たしてどれほどの売上なのか心配になる。

おやじさんが頑張っていてくれるお陰で、子供の頃に食べたのと同じ味なのが嬉しいが、後継ぎがいないのだから、あと何年続いてくれるのだろうか…。私が継ぐか!? とも思うが、私だってそれなりの年なのだから駄目である。

家に持ち帰る用の10個入り1箱と別で青井食堂用へ5個。合わせて1,800円だった。

5個は木のヘギに包んで、包装紙でくるんでくれた。この包装紙も当時物で、弁天通りの支店の記載がある。そして、なによりも包装紙の匂いが懐かしい。当時の香りがするのである。

甘太郎の正面には元「新亀庵」の建物が残っている。閉店して随分経つと思う。閉店の少し前、三河町にあった「新亀庵支店」は火災で閉店し、今は更地になっている。

三兄弟で3店舗を出したとのことであるが、最後まで残った本店も閉店となったということだ。

銀座通りに出ると、元ミヤマ会館の脇でビルの新築工事中であった。昔は普通の商店や飲食店が並んでいたと思うが、今は飲み屋さんが目立つ。

写真の左手辺りに「おもちゃのミフネ」という店があったな~と思い出す。今は明確にどこにあったのかは分からないが、間口の狭いあまり広くない店だったが、入口の右手は女の子用、左手は男の子用のおもちゃに分かれていたように思う。奥は、大人用の玩具。といっても変な玩具ではない。トランプとかゲームとか、ミニカーとか、ちょっとした鉄道模型。他所では買えないミニカーや鉄道模型がとても魅力だった。小学校低学年時代にねだって買ってもらったミニカーは2,200円だった記憶がある。

真っ黒に塗られた奥の深い二階建てが目にとまる。その手前の角は空き地、駐車場になり、その間に居酒屋やスナックが並ぶ路地。

角の一軒が無くなってしまったのと、反対の角が真っ黒に塗られてしまったので、随分と昔とは印象が違う。

銀座通りを挟んだ反対側の角も空き地の駐車場。その奥の店の脇には、店で使っていたのであろうソファーが積まれていた。

暗い店内から、狭い通路をソファーを抱えて運び出すのは、さぞかし大変だっただろうと想像してしまった。

そして明るい時間帯に、夜のお店のソファーを見るのも、なんだかおかしな感じがした。

銀座通りから元パチンコ丸の内方向に延びる路地。右手の建物が新築されたので出来た路地なのか、元々路地があったのだろうか。

以前はパチンコ丸の内に突き当たっていたであろうから、暗い、目にとまらない路地だったかもしれない。

左手の建物は途中からトタン張り。奥はツタが絡んで茂っているのが良い雰囲気ではある。

銀座通りが千代田通りと交差するところには、古い洒落たビルが残る。昔のミヤマ会館と昭和の時代には高崎ハムの肉屋があった角だ。

このビルは洒落ていて、私としては有形文化財として保存したい建物である。洒落た外観なので、時折若い子の店が入ったりするが、どうも続かないらしい。今も空き家になっているように見えた。

千代田通りを少し北に行き、左に折れて斜めに延びる路地を歩く。昔は店が連なっていたと思うが、今は何軒かはやっているのだろうか。まあ、歩くのには、こんな道の方が歩きやすい。

路地を抜けて、近藤時計店のビルがある道へと出ると少し空き地が広くなっているように感じた。

すぐに「ときわ食堂」の文字が浮かぶ。入口脇にショーケースがあり、メニューの食品サンプルが並んでいたと思われるが、いつの日かメニュー値札の脇にはリボンで作った人形が並んでいた。

それが閉店となり住宅にリフォームされたが、きっと解体されたのだう。確かここだったと思う。

オリオン通りのアーケード、右手は近藤時計店のビル。手前には駐車場が広がる。ここには映画館の「オリオン座」があり、隣には「十字屋」もあった。

取り壊されると広大な駐車場になった。店は減っていくが、駐車場は増えていく感じである。店がないのに、客が来るのだろうかと思ってしまう。

オリオン座の脇の狭い路地に入ると、映画の株主優待券を売る店があり、そこを南に折れると同級生の家「大釣り堀」があった。

近藤時計店のところを西に行った角のビル。こうして一軒だけ残されると、ついつい目につくが、なかなか昭和な感じのビルである。

今やポツンと取り残され、奥からは駐車場が侵食して来ている。

左手の奥の駐車場は「パチンコ第一会館」の跡地の様である。ここも同級生の家だった。パチンコ屋とダンスホールがあり、私の父親は、ここでもバンドの仕事をしていたから、小さい頃から出入りしていたように思う。

駐車場が広がり、あらわになった通り沿いの店の裏面。最近、気に入っている光景である。

地方都市に行くと、良く目にする光景である。通り沿いの表側からは、そう古くは見えないのだが、無防備な裏側には昭和が香っている。場所によってはもっと古そうな街もある。


そして、ようやく青井食堂に到着。

私はいつものキリンさんと、今回は冷奴である。先に買い物をしながら来ていた奥さんが「ハムカツ定食」で、その半分と冷奴の半分を交換して食べるのが信沢夫婦流なのである。


青井食堂の南の角の「風雷」の中華屋。我が家も時折寄りのだけれど、1年に1、2回か。ランチメニュー(?)の酢豚が私は好きである。

近年はツタの絡まり方がダイナミックで、良い雰囲気で、つい一週間ほど前に葉に覆われた壁面を撮ったと思っていたが、北の隅から枯れ始めていた。紅葉してくれても良いと思うが、枯れて来ていた。

9月17、18、19日と三連休ではあるが前橋の街にはあまり人はいない。台風14号が日本列島に接近して天気が悪いからなのか、みんなどこかに出かけているのか…。

帰り道で中央通りアーケードを覗くと「BBQ」の文字。中央イベント広場に何か店が出ているようだが、人影は少ない。

このBBQの広場の奥は広い駐車場。そしてその先に、古いちょっと洒落たビルが見える。あの辺りには昔はダンスホールが並んでいた。確か「モンテカルロ」と「モンパリ」だったと思う。バンドには派閥らがあったらしく、私の父親のバンドは「モンパリ派」で、私は「モンテカルロ」には入ったことがなかった。

裏通りを歩いて、国道50号線の本町二丁目の歩道橋を渡って「ゑびす通り」。江戸時代からの通りである。昭和40年頃までは、商店や飲食店が並んでいた通りだが、今や店は点々と残るだけ。

「ゑびす通り」の看板だけが、その昔は商店街だったことを伝えている。


表町一丁目に入ると「万年塀」の残る駐車場がある。その向こうには、終戦直後の焼け跡に建ったと思われる家が今でも数軒残る。

駐車場は元はシャープの会社のビルであった。大通り沿いの入口の両側にはショーウィンドーがあり、扇風機が回っていたり、テレビが映っていたりした。家に帰る手前で面白い番組をやっていて、しばらく立ち止まって見ていたこともあった。

そのシャープを解体したのも随分前になるが、その時に陰に隠れていた昭和の木造住宅群が現れたのだった。人が通れるだけの狭い路地で奥の家へと繋がっている。

久しぶりに千代田町を歩いて随分と街の景色が変わってきたと感じ、久しぶりに書いたのであった。