三河町 馬場川沿いから広瀬川へ その1

The Baba River in Mikawa Town to the Hirose River. Pert 1

昭和の残り香 信沢あつし

2021/12/15 Smell of oldies. A.Nobusan

前橋駅前通りと国道50号線が交わる「五差路」の歩道橋から見た、「八間道路」。ここは時代的には新しい道で、両側に当時の古いビルが並んでいる。

五差路の交差点の1本であるが、前橋駅前から中央前橋駅へと直線的に抜ける広い道路。多くの期待を集めて完成した道路であり、角には商工会議所も建ち、華やかな道であったであろう。

左手は千代田町5丁目、右手は三河町1丁目。今もどちら側にも道路に沿った古いビルが目に付く。

以降の写真は2021年1215撮影

五差路の歩道橋をホテル油屋側に降りる。古い戦前の長屋は、大成堂書店跡と大谷歯科跡。いつまで残されるかが心配だ。

その先の東福寺へ続く路地に入ると、左手奥に古いアパートが見える。昭和30年代、40年頃のものではないだろうか。古いのではあるが、当時としてはかなりモダンな洒落たアパートだったと思う。

この辺りの国道50号線沿いまでは商店街から続く本町2丁目。下りきったところの馬場川の北側は三河町1丁目となる。

東福寺前から馬場川沿いに東に行った一つ目の通り。緩く曲がりくねり、中央前橋駅脇の踏切を抜け城東町へと抜ける道。三河町1丁目を南北に抜けるメインストリートだったと思う。

この先、左手に今も建物は残る「前田スタジオ」は、私の父親の知り合いだったようで、何度か連れていかれている。クリスマスの時期に電飾や飾りを買ったが、夜の街の店を彩るような商品がたくさん陳列されていたのを覚えている。

その通りを横切ると田中石材店。左手が店舗と自宅で、馬場川との間の狭いところに石材屋の工場が建つ。板塀と工場に挟まれた路地を抜けると道は、右、左とカギの手に曲がり馬場川沿いとなる。

ここの板塀が好きである。私が生まれ育った昭和30年代後半は、こんな板塀がある家が沢山あった。板と板の間には隙間があるのだが、それが少しずつ重なり合っていて、塀の中を透かし見ることができない仕組みに興味があった。角度によっては塀の中の庭がちらりと見えたりするのであるが、全体を見渡せないもどかしさがあった。

田中石材店の板塀の先にはシュロの木。これも子供の頃を思い出させる。その先は隆興寺への参道。両脇には商店が並んでいたのだろうと思うが、今は「パーマ」と書かれた1店舗のみである。

板塀の東側は2軒あったが、近年順に取り壊され空き地となった。石材店から2軒目は、この路地沿いにブドウ棚があり秋の日に実るのを見るのが好きだった。私の母親の実家が、この先の旧中川町で南の庭にブドウ棚があり、その雰囲気に似ていたからだ。

カギの手に曲がって馬場川沿いに出る。この辺りの流れは、この手前の街中よりも流れが早い気がする。そのせいかこの辺りでは、あまり魚を見たことがない。

左手は隆興寺の生垣で、カラタチの生垣である。春には花が咲き、秋口には小さな実が生る。生垣の下にはお彼岸に赤い曼殊沙華が咲くのも楽しい。

右手は本町3丁目、国道50号線に面したところ。空き地は以前は墓地であった所で、今も家は建たず、お地蔵さんがひとつだけある。その向こうには新しい家が建ち並んでいる。

隆興寺の先に、ポツンと一軒残る家。ベランダで黄色く色づいている葉は藤である。誰も住まなくなった家に自由自在に延びた藤が咲き乱れるのは不気味でもあるが、美しい。

門のところには大きなツバキの花が咲いていた。

その先の若草色の葉は隣の空き地の桐の木である。

いつの間にか空き地に広がっている桐の木。一番右端に大きな木があり、そこの種から何本かが出て来たのであろう。

桐は雑草のごとく、ひょろひょろと延びてくるが1年もすれば、切るのも大変な太さになる。どんどん大きくなるので、見ていて楽しいが、ある程度大きくなってしまうと手におえなくなる。

三河町の空き地には、そんな桐の木が目に付く。

馬場川沿いの三河町側は寺町であるが、その寺と寺の間には、家が連なっていたが今や区画整理が進み空き地が広がっている。

写真のところも、ここ数年で空き地となった。奥に比較的新しい家もあるが、ここから向こう側の通りには抜けられない。袋小路になった地域で、元々の路地も自動車が通り抜けられないぐらい狭い。

「こんなところで自動車を持つのは不便だうろ」と思ったこともあるが、往時は自動車など必要のない時代だったのだと思う。

更地が広がると、自動車が走れる道路が整備されるに違いない。

馬場川沿いのクルマが通り抜けられない小道を抜けて振り返る。この辺りは、まだ昭和の風情が残っている。

馬場川にはいくつもの小さな橋が残り、両側に家が建ち並んでいたことが分かる。

この小さな橋を渡れば、すぐ国道50号線。昭和40年代までは50号沿いには小さな商店が連なっていたから、とても便利な地域だったに違いない。我が家も昭和40年頃までは、この辺りの50号沿いで買い物をした。年末になると重箱を持って買い物に出て、正月用の煮豆や伊達巻、フナの甘露煮などをお重に入れて買って行ったのを良く覚えている。

つづく。