馬場川沿いのカラタチの小道から
三河町、本町三丁目界隈
I walked along the path of trifoliate oranges along the BABA-KKAWA River
through MikawaCho and HonMachi 3-chome.
昭和の残り香 信沢あつし
2022/10/12 Smell of oldies. A.Nobusan
昭和の残り香 信沢あつし
2022/10/12 Smell of oldies. A.Nobusan
2022年10月12日、八幡様、国道50号線と駅見え通りが交差する五差路まで歩いて、まろいまろいカラタチの実が色付いたころだと思い、カラタチの生垣のある小道へと向かう。
五差路の歩道橋を下り、国道50号線を歩くと東福寺の入口となり、参道を下ると馬場川沿いの狭い道となる。国道沿い東福寺の入口東の角には歴史のありそうな「丸茂一木材工業」という製材、材木屋があったのだが、二週間前ほどに解体され更地となり、既に一部では新しい建物の基礎を作り始めていた。
参道に入ると丸茂一木材工業の母屋だろうか、渋い玄関が目に入って来た。品があるというのか、昔懐かしいというか、植木屋だった私の母親の実家の玄関に似た風情を感じる。
丸茂一木材工業の奥には大きな蔵のような外観の倉庫があったが、こちらは奇麗さっぱりなくなり、新しい建物の基礎の工事が始まっていた。
東福寺にはこの参道に小さな山門があったが、これは東日本大震災の後だっただろうか、解体されており、寂しさに拍車がかかった感じがした。
馬場川沿いに東に行けば、田中石材店と隆興寺。カラタチの生垣がある小道は馬場川沿いの道と隆興寺との垣根である。
田中石材店に石に彫られた看板のようなものがあり「天狗坂」の文字も刻まれていた。この国道50号線へ出る上り坂が天狗坂なのだろう。
田中石材店の母屋と工場の間の小道を抜けると左手は空き地となる。3軒くらい建っていたのだろうか。確か一番新しそうな二階家から解体され「なぜ新しいのに先に壊すのか」と思ったが、周囲も順番に解体されていった。
隆興寺への参道で、昔は商店などが並んでいたのではないかと思っていたが、そんな面影も消えつつある。
小道は右左とカギの手に曲がり馬場川沿いになると、左手には龍興寺のカラタチの生垣となる。
毎年の様に通るが、カラタチの実は目立つところにはない。大概、枝、葉に隠れてなっている。生垣を透かすように見ていくと、すぐに橙色の「まろいまろい金の玉」が見つかった。目に付くところの実は、通る人がもいでいくのだろうか。今年は5つ、6つの実が隠れるようになっていた。
カラタチの生垣の下には、彼岸花が咲く。もちろんもう花は枯れ、細く長い茎も元気を失い、道に倒れ込んでいる。
生垣が終わると小道沿いに小さな古い家が続く。とはいえ、半分以上は空き家となり、既に解体されているのだが。車が入れない小道沿いの家は、建て替えは難しいのであろう。残った家もほとんどが年寄りであろうから、姿を消すのも時間の問題である。
馬場川の南側、国道50号線と挟まれた所は本町三丁目であり、こちら側も川沿いには古い家が点在する。
ここの家は近年、お爺さんが自転車に乗っているのを見たことがあるが、果たして今も住んでいるのだろうか。
本町三丁目のおじいさんが住んでいた家の角にはナンテンがあり、毎年沢山の実を付ける。今年も、うじゃうじゃと沢山の実が付いていたが、まだ真っ赤にはなっていない。もう少し寒くなったら鮮やかな赤になるのだろう。
※ずっと「ナンテン」だと思っていたが、実の形、生り方、先端の丸い葉などから「ピラカンサ(ピラカンサス)」というのかも知れません。
三河町側には数本の大きな桐の木が伸びている空き地があるが、こちらも沢山の実を付けていた。その実が、この小道沿いに運ばれるのか、馬場川沿いには大きくなり出した桐の木が目立つ。ここの橋のところにも下から延びた大きな桐の葉が顔を出していた。
「ムラサキシキブ」と思いつつ、紫の実が少ない。そして「コムラサキ」という名が頭に浮かぶ。以前、木曽の王滝村に行ったときに、沢山の実を付けたのをみてムラサキシキブと思ったが、帰って調べると確かそれはコムラサキであったという記憶がある。
これは実が少なくて華やかさがないからムラサキシキブなのであろう。
馬場川の本町三丁目側の家々には、一軒に一つずつ人が渡る用の橋が架かる。この橋の側からしか出入りできないのだとしたら、大変不便な家だろうと思うのは、自家用車が当たり前になった現代だからだろう。
昔からこの辺りに来て思っていたのは「この辺りの人は自家用車をどこに留めるのだろう」ということ。私が住んでいる表町も小さな家が多かったが、小さな庭を駐車場にしたり、奥の家は路地に留めたり。昭和40年頃に自家用車が普及し始めても、あまり不便は感じなかったからだ。
車の通れない馬場川沿いの通りを一旦抜けると、保育園の辺りだけ車が入ってこられる通りとなる。時に、保育園の送り迎えの自動車が何台かやって来て、子供を乗せて帰っていくのを見かける。
きっと、この道が広くて向こうまで抜けていれば便利だろうと思っている人は少なくないと思う。
この小道を散歩して喜んでいるのは、直接関係のない近隣の町の、私のようなおじさん以上の人だけだろう。
辺りの家は解体され、本町三丁目側にポツリと残った家。あまり大きくはない。向こう側は国道50号線に面した家が並び、この家はどちらからも人が通れる程度の路地で繋がっていたのであろう。
大きさから、戦後の「配給材」で建てた家ではなかろうか。終戦直後、焼け野原に300円の配給材の家が建ったが、それは皆、住むために場所も選べず建てたのだろうから、車が通れるような道を空ける余裕はなかったし、当時は自家用車などと云うものは想像もできなかっただろうし。
小さな馬場川と、川に沿った小道と、川と小道の両側に並ぶ古い家々。そして、馬場川に架かるいくつもの小さな橋。
ここには、私の子供の頃の風景が残っているようで、なんとなく歩いてきてしまう。今思えば私が生まれた昭和34年は、まだ戦後間もない時期。300円の配給材の家々が密集していた時代だった。
そんな家々が目立たなくなっていったのは昭和40年代に入ってからである。
今やポツンと取り残され、奥からは駐車場が侵食して来ている。
そろそろ、帰ろうと国道50号線へとでる。出たところの道の反対側には、古い大きな商店だか、倉庫のような木造二階家があったが、それは最近取り壊されると周囲の小さな木造平屋も解体され始めた。そんなところにポツンと残った家。家の周囲はどこも車が通れる道路に面していない家。
周囲が無くなったから、いよいよ取り壊されるのであろう。
その向こう側、昔の税務署の跡地辺りでは新しいビル、マンションだろうか建設中である。
周囲には新しい家々も建ち、もう昭和も風前の灯である。
その並びにも2軒ほどトタン屋根の小さな家が残る。こちらはまだ住んでいるのだろうか。
奥の一軒には洗濯物が干してあるように見える。周囲は更地の駐車場の様になり、見ている方も、少し恥ずかしい気持ちになる。
国道50号線沿いの「目崎酒店」さん。通るたびに思い出すのは、信州佐久の土屋酒造店に行ったとき「前橋だったら、目崎さんにお酒を卸しているよ」などと言われたこと。
国道沿いで各地の日本酒を売っていたのかも知れないが、いつの間にか自動販売機も撤去され、店は少し戸が開いているだけ。
思い出せば、子供の頃は、この並びには商店がずっと並んでいた。親の友達の家の靴屋さんもあった。大きな総菜屋さんが2件ならんでいて、時折、母親の買い物に付き合い、自動車のおまけ付きのガムを良くねだって買ってもらったのを思い出す。
父親が自家用車を買うと、通りの脇に車を止めて買い物をしていた記憶もある。当時から広かった国道50号線であったか、片側1車線であったのだと思う。
目崎さんの先の角を右に入る。振り返ると広い丁字路の突き当りには小さな商店の建物が数軒残る。
右手に見える古いビルは、今は群馬県労働センターと看板を掲げている。群馬県労働組合のビルらしいが子供の頃からあり、渋いビルだと思っていたが未だに健在なのは嬉しいが、今になると古すぎる。隣の更地が侵食して来ているようにも思える。
角を曲がった先の角の右手は井上医院。きっと母親の友人が入院した時であろう、ここに入った記憶がある。母親の実家は昔の中川町でここも昔は中川小の区域だったのではないだろうか。母親からは「中川町」「片貝」「新町」などの言葉を良く聞いたが、この辺りの昔の地名だと思っている。
子供の頃に立派に思えた井上医院の駐車場。左手の柱の下にある丸いものは、駐車場の入口ゲートを上げ下げするハンドルであろう。駐車場の右手にも古めかしい柵が残る。今時、この辺りでは奇麗に柵で囲まれた駐車場など見ないが、当時はきちんとゲートがあり、柵が作られていた。
本町三丁目と表町二丁目の間の道で家に向かう。先に見た洗濯物が表に出ていた家だろうかと思うが、表には洗濯物はなくなっている。ブラブラ歩いているうちに取り込んだのだろうか。
ここも斜めに国道50号線に出る広い道。駅前方向から延びた広い通りには、商店や会社の事務所などが並んでいたのだと思う。今や、昔の面影を残す建物は数軒が残るのみ。
それだけ、前橋の街も人がいなくなり、賑わいが無くなったということだ。それは、どこの街も一緒かな。
ここは国道50号線に交差して天狗坂を下る道。こうして見ると、商店のような建物が残る。左手方向には、大きなバナナの倉庫が2つほどあったと思う。高校時代に、そのバナナ倉庫の写真が撮りたいと思っていたので、昭和50年頃はまだ存在していたのであろう。
カラタチの実を見に行ったのだが、失われていく昭和を感じて歩いてきた。跡地を見て「ここは同窓会をした喫茶店だった。」、「ここは確か河合君のおじいさんがやっていた食堂だった。」と思い出せればよいのであるが、多くは思い出せないまま。
記憶を紐解く景色が無くなってしまうと、記憶も希薄になっていく気がして、少し心配にもなるのであった。