玄察日記 正保4年ポルトガル使節船

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玄察(寛永九年,1632生まれ,上益城郡早川村厳島神社宮司)は,拾集物語(渡邊玄察日記)の最初に,「十三より内の事は相尋候而書記候其以後は自分見聞之事色々書出候」と書いている.すなわち,13歳までのことは,父親から聞いたことであり,それ以降は自分で見聞きしたことというわけである(日記概要 別稿).

正保4年(1647),15歳の日記には,肥前(長崎)に来航したポルトガル船について詳しく記している.当時世界の海に乗り出していった木製ガレオン船の大きさに興味があったので,改めて玄察日記を読み直してみた.現在のような情報伝達手段のない時代,肥後藩の片田舎(現御船町)での「情報源」については以下のように記している.

此年之六月, 肥前國長崎へなんばんぶね着船申候とて當御國よりも御陣立御座候.

就夫(それについて)中村左馬進殿其の砌(みぎり)は伊織殿と申候. 伊織殿も御出陣なされ候に当所からは唯今之浄山忠右衛門と申候時伊織殿御百姓(いろいろな姓を持つ有姓階層)故罷立候. 伊織殿の御家老瀬崎太郎兵衛と申仁勿論被罷立候.

然ば彼の太郎兵衛長崎之事を従(より)長崎書付被罷帰候を見せ被申候に付, 即時に書写候て為後咄(はなし)書付置候.

右着船二艘如何様之船にて候哉と従御政所様被成御尋ね候へば従船中書附を差上申候

禁制の南蛮船が肥前国長崎に着船したので,警備のため九州各藩から出陣するが,給主(領主に給田を与えられ,年貢課役の納入責任者)である中村伊織(加藤家,細川家に仕えた武家役者)も陣立(軍勢の配置)する.伊織の家老である瀬崎太郎兵衛が長崎で見聞きし,書き留めていたのを見せてもらって,即座に書き写したと記している.

その中に,幕府役人が「二艘のポルトガル船は如何様の船であるのか」と質問した際の回答内容が書かれている.

注)肥後中村家は,加藤清正に召し抱えられ肥後に入るが,慶長十五年(1610)に金春流の奥義を相伝された.以後,中村家は師家としての印可を受け,伝書を授けれた家として能界に大きな権威を持つに至った.加藤家が改易された二ヶ月後には細川家に召し抱えられている.早川(そうかわ)村厳島神社は中村家650余石の知行地であったため,宮司という立場で親密な付き合いをしていたことが日記から伺い知ることができる.また,玄察にとっては,中村伊織は金春流能の師であり,能舞で行動を共にしていた.家老長岡(米田)監物下屋敷で能を見物したり,伊織のお供で豊後臼杵稲葉能登守のところへ出掛け御能交流を行ったりしている.

来航の経緯

其書付はふるとかると(ポルトガル)ゝ申國を六十年前よりいすぱんや(イスパニア)と申国よりせめ取られ候て罷在候に九年以来ほるとかると(ポルトガル)をわがまゝに本国いたすとありて此通を日本へ披露可申ため罷渡候

四代目ほるとかると(ポルトガル)やかたはどんじゆあんくわんある(ジョアン4世 くあとろ)と申なり

其人を繪に寫し今渡持渡り候

子細は日本を如在に不存候間向後兄弟一分に被思召下候様にと存為證據持渡り候

右のほるとかると出船仕四年目に参着申候

去年りうきう表迄参候へども大風にはなされ,天川へかけ戻り申候て今年六月天川を出航仕同二十四日に長崎津の内にいれ申候

右之通に長崎従御政所様被遊御尋候に南蛮人申上候由に候

ポルトガルは,60年前の1580年,アヴィシュ家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり,スペインの支配下に置かれてしまった.1640年に,ジョアン4世(ブラガンサ王朝)により独立を回復したのを機に,王の肖像画を持参し,その間の事情を日本に説明し,親交を深めて通商の再開を求めるため来航した.天草・島原の乱以来の断絶状態を解消すべく,新国王の下での国交回復が目的と言いたかったものと考えられる.

出港して4年目に到着した理由については,去年琉球表まで来たものの大風で天川(マカオ)にかけ戻り,今年6月にマカオを出港し,24日に長崎に到着したと報告している.注)実際の日付は,1647年7月26日(正保4.6.24)である.

船の大きさ

大船長さ二十五間,舟のあつさ上にて壹尺,中にて二尺のひろさ,かんばんより中段までのふかさ二ひろ(尋 6尺),上よりそこまで七ひろ,水ぎわよりつゝうへのたかさ二間半,おもてのたかさ二間余,とものたかさ五間余

大ぶねに石火矢廿六ちやう,両ひらに廿丁,表に二丁,ともに二丁,かくし火矢二丁

小舟に同二十四丁,両ひらに十八丁,表に二丁,ともに二丁,かくし火矢二丁

右大船に貳百人餘, 小船に百五十人餘

右之者共六月二十四日に長崎に着船申候に付, 悪事をたくみあくじ仕候へば黒田筑前守殿一番に御かけ被成筈にて御役之段々

以下略(つづきは資料に記載)

本船は従船を伴って来航した.本船の長さは25間(45m)と書かれているが,正保四年長崎警備の図には26間(46.8m)と付記されている.横幅は7間(12.6m),上から底まで7間と記している.大船には大砲26門,小舟には24門を積んでいて,その配置についても書かれている.乗組員数は,それぞれ200人余,150人余である.

正保四年長崎警備の図に付記されている寸法

本船 長貳拾六間 横七間 深サ八間 石火矢数貳拾? 22

従船 貳拾四 六 四 22

両船とも帆柱4本

文化遺産オンライン(船のリンク画像)

ちなみに,玄察日記の満治3年(1661)に次の記載がある.

此年太守様御座船横4間長サ18間に川尻にて被成御作候

熊本藩主が川尻の造船所で建造した御座船(ござぶね)は,長さ18間(32.4m),横幅は4間(7.2m)である.来航したポルトガル船の大きさが分かる.なお,伊達政宗が建造したガレオン船,サン・ファン・バウティスタ号の船長は55m,排水量は500トンである.

幕府の対応・船橋・その他

天草・島原の乱の翌年に来航したポルトガル船の乗組員は,13名を残し,61名を処刑したため,幕府は報復を恐れて諸藩に厳重な警備を求めた.長崎,佐賀両藩では対応できない可能性があるため,福岡藩,熊本藩にも出陣させている.玄察日記には,その陣容も記載されている(資料のつづき).

日記には記載されていないが,肥後藩の長岡監物は長崎港の出口に船を繋いだ船橋を作り,湾を封鎖して封じ込める案を提案し,採用されている.船を繋いだ上に,材木は海辺の町家を崩して調達して敷き詰めたため,馬でも通れる通路ができたと伝えられている[通航一覧 I(巻186. 68-73頁)].

幕府の対応は前回の事件とは異なるマイルドなものであった.

御禁制を犯して渡来すといえども国王嗣位の謝使たるを以てその罪を宥めらるるにより,自後必ず渡来すべからざる旨を諭し,糧米・薪水を与えて8月6日帰帆せしむ。

「今回の使節はポルトガル新王から日本の将軍に対して派遣されたので,寛大な処置をとるが、今後来航すれば(1640年の事件のように)処刑する」と伝え,入港から40日後に糧米,薪水を与えられて出港し,11日後にマカオに着いている.しかし,使節船は11月にジャワ海で暴風に遭い,乗組員のほとんどが亡くなっている.「徳川実紀」によれば,この事件で動員された軍勢は48300余人,船数は898艘に及んだという.

資料

・1644年2月5日,ポルトガル大使はサントアンドレーに乗船し,僚船サント-アントニオと共にリスボン発.但し.途中で暴風に遭い,サント・アントニオはゴアに向い,サント・アンドレーはパタビアに入港,越年した.

・文化遺産オンライン

・正保 4年(1647)ポルトガル船来航時の諸藩の対応

・徳川時代の長崎警備と正保4年(1647)のポルトガル使節船事件 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ[佐竹秀雄,経営と経済,69(4), pp.247-278; 1990.]

・熊本市有形文化財 中村家文書

・黒田藩の陣容の詳細(つづき)

右之者共六月二十四日に長崎に着船申候に付, 悪事をたくみあくじ仕候へば黒田筑前守殿一番に御かけ被成筈にて御役之段々

一番 郡金衛門 飯田角兵衛

市松忠右衛門 喜多村太郎兵衛

二番 楢崎七兵衛 黒田三左衛門

柏山作兵衛 野村勘右衛門

黒田惣右衛門 久世半三郎

池田佐太夫 黒田市兵衛

斎藤半左衛門 津田市之丞

野村権之丞 山内市郎右衛門

岡田源左衛門

三番 甲斐守殿 右衛門佐殿

本陣 大塚喜右衛門 大音彦左衛門

野村新右衛門 国友仁左衛門

神吉三八

田中五郎兵衛 岡田甚右衛門 安左衛門

長濱九右衛門 大塚権兵衛 甚兵衛

明石四郎兵衛 肥塚二郎兵衛 四郎右衛門

大音兵左衛門 肥塚十左衛門 近助

湯浅七郎兵衛 斎藤三郎四郎 四兵衛.

能登

使番 花房治郎 西村五郎兵衛

喜多村平四郎 山本彌八郎

小林四郎三郎 牧口七郎左衛門

右之通瀬崎太郎兵衛書付帰陣之砌書冩如此に候

・ガレオン船の大きさ

船梁 横幅に相当

出典「太平洋史」,著者リーゼンバーグ 著[他],出版者朝日新聞社,出版年月日昭和16(国立国会図書館デジタルコレクション).

(2016.12.13)