加藤氏時代の熊本城絵図

萩藩の内偵による

現在,熊本県立図書館を初めとして他の図書館等で見ることができる「熊本城の絵図」は細川氏時代に描かれた絵図であり,加藤氏時代に描かれた絵図は見たことがない.関連する論文を探していたら,熊本大学工学部建築学科の小野将史,北野隆の両氏による以下の3編の論文に遭遇した.

1)毛利家文庫の絵図 「〔肥後熊本城略図〕」 について一加藤氏時代の熊本城に関する研究 (その1)一 

        日本建築学会計画系論文集 第561号,257−262,2002年11月

2)加藤清正代末期の熊本城について ー加藤氏時代の熊本城に関する研究 (その 2)ー

        日本建築学会計画系論文集 第 566 号 ,133−138,2003年4月

3)加藤忠広による熊本城の改修と熊本城小天守について ー加藤氏時代の熊本城に関する研究 (その 3) ー

        日本建築学会計画系論文集 第576 号 ,157 −162,2004年2月

いずれの論文もフリーでPDFファイルをダウンロードできるのので,リンクを張っておいた.

三報の論文の基礎となっている情報は,山口県文書館所蔵毛利家文庫の「[肥後熊本城略図]」である. その位置付けについては,第1報の「はじめに」を以下に引用させてもらった.

1. はじめに(第1報より)

加藤清正によって築かれた熊本城は、 慶長12(1607) 年に は、その大凡が完成している。 加藤清正が、 慶長16 (1611) 年に死亡した後は、その子である加藤忠広が遺領を相続して城主となったが、 寛永9 (1632) 年に改易となったため、 その後は、 豊前小倉城主であった細川氏が国替によって城主となった。

加藤氏時代の熊本城を記した絵図は、 現在の所、忠広代の状況を示すものが数点確認されているものの、そのどれもが城内の建造物については描かれていない2)。 現在確認されている絵図の中で、 熊本城内の建造物が記されている絵図のすべてが、 細川氏時代に描かれたものである3)。 熊本城の建造物などに関する研究は、すでに藤岡通夫博士をはじめとする諸研究があるが4), 加藤氏時代の熊本城の状況、特に城内の建造物に関する研究は、史料的制約があるため、いまだ十分な解明がなされているとは言い難い。

今回、 加藤氏時代の熊本城の状況を表していると思われる絵図 「[肥後熊本城略図]」 (山口県文書館所蔵、 毛利家文庫 58絵図 - 8 30/図1)を見出した。 「[肥後熊本城略図] 」 は、 略記されたと思われる所も見受けられるものの、今までに確認されていなかった加藤氏時代における城内の建造物や縄張などに関する状況が把握できる史料である。

そこで本稿では、 関連史料を用いることにより、 「肥後熊本城略図」が描かれた年代とその背景について明らかにすることで、毛利家文庫の絵図 「肥後熊本城略図」 の史料的価値について考察を行っていくものである

「肥後熊本城略図」(全体図)

「略図」の説明は,第2報で行われている.著者らの解釈をそのまま引用させてもらったので,参考にしてほしい.なお,図の下側が「西」になっているので,現在の地図と対比させるためには,時計回りに90度回転する必要がある.

2-1. 城内の曲輪の構成について

まず、「略図」 (図1)に描かれた状況をもとに、熊本城内の曲輪の構成を読み取っていく。

城内の中央よりやや東に位置し、 城内の建築の中で最も大きく描 かれている建物は、 天守と考えられる。 天守については後述する が、この天守が建っている曲輪(くるわ)は、 本丸 (図1のア/以下の記号も同様) にあたると考えられ、その北東側には、後の不開門の位置にあたる門 (a) より西へ延びる通路 (イ) が描かれている。 本丸部分(ア)と通路 (イ) を隔てた北側には曲輪 (ウ)がみられる。

通路(イ)を西へ進み、突きあたりにある櫓 (G)を抜けると二ノ丸部分に出る。 現在、明らかになっている二ノ丸の構成に従うと3), 二ノ丸の北側部分は平左衛門丸 (エ) にあたり、ここには西出 丸からの入口となる門 (b) が描かれている。 平左衛門丸の西側か ら始まる「からほり」 は、雁行しながら東へ進み、曲輪 (ウ) の北側まで延びている。平左衛門丸と門を隔てた南側は、数奇屋丸(オ) にあたり、他の門とは表現が異なるが、入口だと推測される描写(c) がみられる。 数奇屋丸の南側は西竹ノ丸 (=飯田丸、カ) にあたる が、数奇屋丸との境界は描かれていない。 西竹ノ丸の東側は、東竹ノ丸 (キ) にあたる部分だと考えられる。東竹ノ丸の鍵型になった道を東へ進み、門 (d) を抜けると、天守がある本丸に入る。東竹ノ丸の東南方向、坪井川との境界部分は、「野」と記されていることから、当時この部分は、野原であったと考えられる。

二ノ丸の西側には西出丸 (ク) が配置されており、その内側には 「中川寿林」 や 「下川又左衛門」 といった重臣の屋敷地や、「御米蔵」の区画があったことがわかる。西出丸は、南東側の一部を除き堀が廻らされている。 

西出丸を取り囲むように、北から西に配置された曲輪は三ノ丸 (ケ) であり、ここには「三之丸大めうやしき」と記されていることから、加藤家の重臣層の屋敷があったことがわかる。また、西出丸と三ノ丸の北側と西側には、それぞれの曲輪の距離が記されており、その大凡の規模を窺い知ることができる。

なお、慶長17年6月において、二ノ丸の各曲輪が存在していたかどうかは不明であるが、便宜上、これらの曲輪の名称を使用して、以下の考察を進めていくことにする。

城の中心部を拡大した部分図,概略の間数が記載されている.

2−2,城下の状況について 

次に、同じく「略図」(図1)に描かれている状況、およびその位置関係から熊本城の城下の様子についてみてい く。 

熊本城の東北方向の 「やしき」と記されている地域(い/図1、 以下の記号も同様)は、坪井川との位置関係から坪井地域にあたると考えられる4)。

また、「略図」中の北の端にある道には、「筑後口」と記されていることから、ここは豊前街道の出入口にあたると考えられ、その南側の「新町」と記された所(ろ)は、後述する古京町に対して、新しく造られた町である京町にあたると考えられる5〕。「新町」(=京町)から南へ進み、門(は)を抜けた所(三ノ丸の北側)には、「やしき町」・「やしき」と記された地域(に)があるが、ここは古京町にあたると考えられる6〕。これらの坪井・京町古京町は、主に侍屋敷で構成された地域であった7)。

筑後口(豊前街道の起点),京町の新町(ろ)

また「略図」では、三ノ丸の西側に接するように藤崎八幡宮(ほ)が描かれているが、実際のところ、藤崎八幡宮の敷地は三ノ丸から離れており、「略図亅の位置よりさらに西に位置していた8)。このことは城下の描写についても同じく見受けられ,萩藩の内偵者は,熊本城を中心とした城下の状況を.実際の位置関係よりも圧縮して描くことで,より特徴的に表現していることがわかる.

藤崎八幡宮より、さらに南に進むと「うるさん町亅、「壱町め」と記された地域(へ)があるが、これらは蔚山町と新町一丁目にあたると考えられる。蔚山町と新町一丁目は、ここよりさらに南に位置する古町の商人地に対して、新たに造られた新町の商人地である9)。 

また、蔚山町と新町 丁目の南側にある門を抜けて、さらに南に進んだ所には、「さつま口」と記されていることから,ここは薩摩街道の出入口にあたると考えられる。

さつま口は右端下部,現在の長六橋?付近

また、熊本城の南側、坪井川に架かる橋 (と)を渡った所には、「御はな畠」と記された花畠(畑)屋敷(ち)がある10〕。
    以上のように、「略図亅は建築や縄張の 構成が描かれた城内と、その城下の状況が把握できる絵図であり、持に西出丸は内部の状況もよくわかり、他の曲輪より詳しく描かれていることがわかる。

御はな畠(ち)は城の南側,坪井川の対岸一帯, 大やぶ②(古城跡)は現在の第一高校敷地.橋(と)は下馬橋,現在の御幸橋の少し上流.

慶長15年から慶長17年6月27日までの間において、萩藩は肥後国内を内偵しており、以下の2つの史料から、内偵の時期とその内容を知ることができる。

   文書 1「肥後国熊本様子聞書」 (山口県文書館所蔵、 毛利家文庫 3他家-7/以下、「様子聞書」と略称)

   文書 2「肥後国熊本世間取沙汰聞書」 (山口県文書館所蔵、 毛利家文庫3他家- 16/以下、 「取沙汰聞書」と略称)


3報の詳細を理解するのは,簡単ではないので,各論文に記されている「まとめ」の部分を以下に紹介させてもらった.私が意外と感じた点については着色文字で示した.

第1報

5. まとめ

萩藩は、慶長16(1611)年と同17(1612)年の二度、肥後国を内偵している。 この内、慶長17年の内偵は、北部九州の諸藩(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)を対象としたものであった。この内偵の主な目的は、この頃幕府から出されることが予想された、西国の大藩における支城の破却(城割り) 命令に対する備えとして他藩の実情を把握するためであったことが考察された。 この内偵を受けた北部九州諸藩の内、南北の行程である小倉城から熊本城までの間に位置する各城の城図と、その間の道程を記した絵図が「諸城圖」であり、この絵図によって、萩藩の内偵者が筑後の本城である柳川城、肥後の支城である南関城を経て、熊本城に入っていたことが明らかになった。

慶長17年6月、萩藩による肥後国の内偵の際に書かれた文書で ある「取沙汰聞書」と、同じく内偵を受けた筑後柳川城の文書には、各藩の支城に関して同様の調査が行われていることから、肥後熊本城と筑後柳川城とが一対となって描かれている「略図」は、文書 2「取沙汰聞書」が書かれた慶長17年6月の内偵の際に描かれた絵図であることが明らかになった。また、「略図」および「諸城圖」は、内容が同じ二枚の絵図から成っており、その記載内容から、一方が 実際に現場を観て描いた絵図 (調査図) で、もう一方が萩藩へ帰った後、藩へ差出すために描き直された絵図 (差出図) であることが判断された。

「[肥後熊本城略図]」は、加藤清正が慶長16年6月24日に逝去した後、その子である加藤忠広が遺領(肥後)を相続した直後の慶長17年6月、肥後を内偵した萩藩の内偵者によって描かれた絵図である。「肥後熊本城略図」は、略記されたと思われる所も見受けられるものの、加藤氏時代および慶長期の熊本城の状況を知り得る史料(特に建築物に関して)が極めて少ない中、加藤清正が築城 した熊本城の状況を窺い知ることができる絵図として価値をもつものである。

また、加藤清正が逝去した後の慶長16年10月1日、幕府は肥後仕置きを監察するために藤堂高虎を肥後に派遣しているが、その役を終えた高虎は、慶長17年1月14日 肥後の絵図を携えて駿府にいる家康へと報告に上り、その後江戸にいる秀忠へも同じく報告へ上がっている27)。高虎は、家康と秀忠に非常に親近であり、かつ幕府の築城策に大いに関与した人物である。この高虎が築城の名手である加藤清正築城の熊本城を沙汰したことは、この報告の内容が後に徳川幕府の築城策への参考となったことも考えられ28)、「〔肥後熊本城略図]」が示す熊本城の状況(慶長17年6月)は、この時高虎によって幕府へ報告された熊本城の状況(慶長17年1月)と時期的に近いものであるだけに興味深いものである。

次稿では、「[肥後熊本城略図]」中に描かれている建築物や縄張などについて詳しく考察を行うことで、加藤氏時代(慶長後期)の熊本城の特徴を明らかにしていきたい。また、本稿で取り上げた絵図「九州諸城圖」についても、今後さらに検討を加えていきたいと考えている.

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第2報

5. まとめ

以上、慶長17年6月に描かれた 「略図」 の内容から、 熊本城の特徴について考察を行った。 城内の動線と縄張については、当初現在の耕作御門の入口が石垣で閉ざされていたために、城内のすべての動線が、最終的には東竹ノ丸を経由して、城の東側から本丸へ入っ ていたことが明らかになった。 このことは、 当初の熊本城が東向きであったことを示すものであるが、 慶長17年6月当時には、 西出丸の整備の状況から西向きに変わりつつあったことが窺える。

また、「略図」の東竹ノ丸の構成から、 城の南側からの動線IIIは、熊本城 (新城) 隈本城 (古城) とを結ぶ動線の名残であると考察された。この状況から、当初の竹ノ丸 (特に東竹ノ丸) が、重要な役割を担う曲輪であったと考えられるとともに、慶長17年6月以降、古城の整理 (破却) に伴って、その役割がなくなったことで、東竹ノ丸の構成や動線が改修された可能性が高いと考えられた。以上の考察から「略図」は、慶長17年6月当時、当初の東向きの構成から西向きに変わりつつあった熊本城の状況を描いた絵図だと考えられるのである。 また、平左衛門丸も、その構成から本来は機密性が高く、重要な曲輪であったことが推測された。

次に、建築については、今までは石垣や建築細部の違いから、大天守と小天守の築造時期が異なることが指摘されていたが、その具体的な年代やその状況については、十分な解明に至っていなかった。しかし、本稿では絵図「[肥後熊本城略図] 」を用いて、慶長17年6月当時には、小天守が築かれていなかったことを明らかにし、熊本城の天守が独立天守の形式であったことを示した。

また、慶長17年6月当時、 本丸・二ノ丸の五階櫓 (数奇屋丸五階櫓は不明) や西出丸の三階櫓が、存在していたことから、 熊本城の主要な櫓の構成が、この当時すでに完成していたことが考察された。 また、加藤家の重臣の屋敷が配置された城の西側 (二ノ丸・西出丸・三ノ丸)の縄張計画は、要害として活用できた城の東側の状況とは対照的に、厳重な計画が対策が採られていた。以上の考察から、加藤清正代の末期には、近世熊本城の主要な構成が、すでに完成していたと考えられる。

加えて、萩藩による内偵の状況については、 東竹ノ丸の「御馬や」の記述や西出丸・二ノ丸の詳細な描写から、かなり詳細な調査の上に「略図」を描いたと考察された。しかし、その際本丸内部の状況については、ほとんど把握できなかったものと判断された。

また、次稿では、加藤忠広による熊本城の改修の様相について考察を行っていきたいと考えている。

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第3報

6.まとめ

以上、「肥後熊本城略図亅 と「熊本屋鋪割下絵図」 の内容を比較し,考察を加えた結果、加藤忠広は父である加藤清正から引き継いだ熊本城を改修して熊本城をそれまでの東向きから西向きに改修するとともに小天守を築造したことが考察された。また、「肥後宇土軍記」(山田本)によると熊本城の支城で清正と所縁の深かった宇土城の天守を熊本城小天守として移築した可能性が高いと考えられる。また、小天守の築造と縄張の改修は慶長17 年6月から元和元年6月頃までの3年の間に行われたと考えられる。また、「山田本」の記述や「福島本」添付の「宇土城図」から忠広は宇土城天守を熊本城小天守に移築する際、豊臣秀頼の御成を意図して平面構成を変更したことが考察されたが、その規模としては宇土城天守のほぼそのまま熊本城大天守に隣接する形をとったと考えられるため、熊本城に関する先行研究や小天守の意匠的特徴を手がかりに小天守の前身建築と考えられる宇土城天守の推定復元(外観)を行った。

また、 慶長末期からの幕府による築城統制に逆行する加藤忠広の熊本城改修は、幕府に熊本城の軍事化を強く意識付けたと考えられる。

論文3編の内容を以下に列記した.

追記

次図は熊本県立図書館が公開している熊本城絵図,作図年代は不明.IIIF非対応.