(Miles Dewey Davis III / May 26, 1926 – September 28, 1991)
「すべての音楽家は、すくなくとも1年に1回は楽器を横に置き、エリントンにひざまずいて感謝の念を示すべきだ」
("At least one day out of the year all musicians should just put their instruments down, and give thanks to Duke Ellington.")
マイルスは、終生エリントンへの絶大なる敬意を抱いていた。
冒頭の言葉はそのマイルスが言ったとされる有名なことば(ただし出典は未確認)。
エリントン没後直後、
マイルスはエリントンを追悼して32分に及ぶ 「He Loved Him Madly」 を録音し(1974年6月19日)、
この演奏を収録した『GET UP WITH IT』のジャケットに「FOR DUKE」と記す。
前半をオルガン、終盤をトランペットで演奏。
菊地成孔、大谷能生の言葉を借りるなら、
「He Loved Him Madly」は「世界中のあらゆる葬儀のための音楽エッセンスをひとつにまとめたかの如き、
儀式性と抽象性に満ちた、「世界葬儀音楽」」とでもいうべき音楽であり、
マイルスは父性を投影した相手に対して、本気で哀悼の意を表している。
He Loved Him Madlyを録音した1974年(と、その後の6年間)は、マイルスにとって最悪の時期だった。
72年の"On The Corner"が評価されず、その一方で73年にハービーが"Head Hunters"を大ヒット。
74年には酒と麻薬に溺れ、音楽をやめることを真剣に考え始めていたという。
自伝にははっきり書かれていないが、
マイルスのdepressionの遠因の一つとして、74年5月24日のエリントンの死も考えられるだろう。
マイルスのエリントンへの尊敬の念は若いころにさかのぼる。
18歳、若きマイルスのレコード棚を覗いてみよう。
…ディズとバードのことは知っていたし、彼らの音楽もちゃんと聴いていた。オレがトランペッターだったせいか、特にディズには詳しかった。もちろん、バードだって聴いていた。<ウッディン・ユー>というディズのレコードと、<フーティ・ブルース>というバードの入ったジエイ・マクシャン楽団のレコードを持っていた。それで初めてディズとバードを聴いたんだ。それだってものすごかった、信じられなかった。他にはコールマン・ホーキンスを一枚、レスター・ヤングを一枚、それにジミー・ブラントンがベースを弾いているデューク・エリントンのものすごいヤツを一枚持っていた。これが、持っていたレコードのすべてだ。中でもディズはオレの最大のアイドルだった。よく(ウッディン・ユーのディズのソロを、そっくりそのまま吹こうとしたもんだ。ディズの他には、クラーク・テリー、バック・クレイトン、ハロルド・ベイカー、ハリー・ジェームス、ボビー・ハケット、それからロイ・エルドリッジが好きだった。ロイもオレのアイドルになったが、1944年当時は、なんと言ってもディズ一人だけだった。
「ジミー・ブラントンがベースを弾いているデューク・エリントンのものすごいヤツ
(one record of Duke Ellington with Jimmy Blanton on bass that was a motherfucker)」とは、
'40-'42年のブラントン・ウェブスターバンドのものだろう。
The Blanton-Webster Band (’40 - ’42)
The Blanton-Webster Band (’40 - ’42)
ハロルド・ベイカーはショーティ・ベイカーのことで、クラーク・テリーとともにエリントニアンであり、
若きマイルスはエリントン・ミュージックの重力圏にあったといえる。
マイルスにとって、エリントンは音楽のキャリアをスタートさせる前から尊敬の対象であった。
さらに、ジャズにおける価値観の一つ、『ゴージャズ/リュクス/リッチ寄り』のすべての美学の形成を、
1927年から契約したニューヨークのコットンクラブを拠点としてほぼ独力で完遂したエリントン(菊地・大谷)は、
音楽面のみならず、精神面においても、マイルスにとってとてつもなく大きな存在だった。
それだけに、有名なこのエピソードは「強烈な体験(tough experience)」だったにちがいない。
あの頃(管理人注:1949年頃)いろんなことが起こりつつあった。なんと、巨匠デューク・エリントン本人が、オレのやっていること、1948年の演奏を気に入って、会いたいと言って使いの者をよこしたんだ。ステージのデュークは見たことがあったし、レコードも全部聴いてはいたが、デュークとは一度も話したことがなかった。音楽も、態度も、スタイルも、すべてを敬愛していた。だから、使いの者がやって来た時は、本当に有頂天になってしまった。そいつはジョーという名前だったような気がするが、デュークはオレを気に入っていて、服装や物事への対処の仕方にも感心しているって言うじゃないか。自分のアイドルの口から出た言葉は、22歳の小僧っ子にとっては、大変なものだった。まるで頭が身体から離れてしまって、エゴが空高く舞い上がっていくようだった。ジョーはブロードウェイと49丁目の間にあった、「ブリル・ビルディング」のデュークの事務所を教えてくれた。
そんなわけで、椅麗な恰好をして、デュークに会いにいった。上のほうの階にあった事務所のドアをノックすると、女性を膝に乗せた下着姿のデュークがいた。これには心底驚いた。音楽界で最もクールで、ヒップで、クリーンだと信じていた人物が、自分の事務所で、女を膝の上に乗っけてニヤニヤしてたんだ。オレの頭は、いきなり混乱してしまった。で、彼が言うには、秋にやる音楽的なイベントの計画の一部にオレが入っていて、ぜひ楽団に加わって欲しいと言う。この誘いには、本当にまいった。もう嬉しくて、また有頂天になった。最高のビッグ・バンドに、オレのアイドル本人が入ってくれと頼んでるんだからな。オレのことを考えてくれた、演奏を聴いてくれた、しかも気に入ってくれた。まさに驚きでしかなかった。
だが、「クールの誕生」に取りかかっているから、参加できないと言わなきやならなかった。デュークにもそう答えたし、それは本当のことだった。だが、デュークに言えなかった本当の理由もある。それは、毎晩同じ音楽を繰り返し繰り返し演奏する、オルゴールみたいな生活が嫌だということだ。オレの興味は、もっと別なところにあった。デュークのやっていることは大好きだったし、大いに尊敬もしていたが、オレの進むべき道はデュークのとは違っていた。だが、そんなことデュークに言えるわけがない。だから、ただ「クールの誕生」をやらなければと言って、「あなたはずっと私のアイドルで、私のことを考えてくれただけで光栄です」と伝えた。話を断って、彼が気を悪くしないように祈ったものだが、彼はわかってくれて、「気にすることはない。自分に一番合った道を進むべきだ」と言ってくれた。
デュークの事務所を出ると、ジョーが「どうだった?」と聞いてきた。オレは「ビリー・エクスタインのバンドで働いていたことがあるから、ちゃんとやり方は知っているが、もうやりたくないんだ」と答えた。「デュークのことはものすごく尊敬している。だからこそ、やりたくないんだ」とも付け加えた。あの日からデュークが死ぬまで、二人っきりで話すことはなかったが、もしあの時バンドに入っていたら、どうなっていただろうと、よく一人で考えることがある。まあ、考えたって、わかりっこないがな。
管理人も、よく考える。
マイルスがエリントン・オーケストラに入団していたらどうなっていただろうか、と。
クーティのプランジャーに対抗すべく、
ハーマン・ミュートのスペシャリストとして扱われるマイルス。
マイルスをフィーチャーした曲もたくさん演奏されることだろう。
曲が終わってエリントンがマイルスを紹介する。
「マ~イルス・デイヴィス、マ~イルス・デイヴィス!」と、
満面の笑みを浮かべたエリントンと対照的に、
硬く唇を結んで不機嫌な表情のマイルス。
そのまま客に愛想を振りまくこともせず、
居眠りしているポール・ゴンザルヴェスの横を通って自分の席に戻っていく…
…う~ん、これはやっぱり長続きしないだろう。
まあ、いずれにしてもこれは「考えたって、わかりっこない」ことか。
マイルスはこの「敬して遠ざける」姿勢を守り、
以降、エリントンの音楽に近づくことはなかった。
この姿勢を徹底させたのが 『GET UP WITH IT』 の 「He Loved Him Madly」である。
「エリントンの追悼」といっても、安易にエリントン・ナンバーを演奏するのではなく、
新曲、しかも以後人前で演奏することのない音楽を捧げた。
このときのマイルス、エリザベス女王に『女王組曲』を捧げたエリントンに自分を重ねていたのでなはいか。
さらにこの曲は、'75年~'80年の引退前のマイルスの、
「発売された正規スタジオ盤のラスト・テイク」でもある。
この直後、マイルスは、
「退廃すら超えた、「退屈の意味すらわからなくなるほどの、極限の退屈」である6年間」を送ることになる。
カムバック後、特に『ユア・アンダーアレスト』以後のマイルスは、
自ら「マイルス・デイヴィス」像を演じていた、というのが中山康樹の解釈だが、
その演技においても、ジャズの父たるエリントンへの態度は変わらなかった。
ちなみに、マイルスを自宅に呼んだ当時のエリントンの姿はこれ。
下着にヒョウ柄のガウンを羽織り、これに女性を載せた姿だったと思われます。
あのマイルスといえど、当時は20代前半のおのぼりさん。
刺激が強すぎて思考停止になりますよ。
いや、もしかしたら、それがエリントンの作戦だったりして。
さて、マイルスによるエリントン・ミュージックへの接近を以下にまとめてみた。
エリントン・ナンバーの録音として最も古いものはIn A Sentimental Mood で、
マイルスがビリー・エクスタイン・バンド(Billy Eckstine band)にいた頃の演奏。
もっとも、これはマイルスの意志、選択によるものではなく、
バンドのレパートリーとして消化した、程度のものだろう。
(Disc 1, #21)
本格的なカバーは「Perdido」から始まる。
ただ、「エリントン・ナンバー」というよりも、セッション曲として都合のいい曲を選んだ、というのが真実だろう
(そういえば、ミンガスも『At Carnegie Hall』で20分を超える「Perdido」セッションをやっていた)。
・In Paris Festival International De Jazz (Live), 1949, May
In Paris Festival International De Jazz (Live)
クレジットはThe Miles Davis and Tadd Dameron Quintet。
#5 「ワー・フー(Wah Hoo, Wahoo)」とか雑な表記だが、進行は明らかにPerdido。
コード進行だけ「かっぱらって」新曲を書き上げたのか。
Perdidoの亜種として演奏しているのかは不明。
ただ、ほぼ同時期の次のアルバムのクレジットでは「Perdido」となっている。
テーマも全く同じ。
・Our Delight, 1952, Spring
クレジットはMiles Davis & Jimmy Forrest。
Perdidoのクレジット問題はマイルスの「SONNY → SOLAR」問題を彷彿とさせるが、
よくある「リズム・チェンジ」作曲のような気もする。
いずれにしても、この時期の演奏、これはこれで悪くない(中山康樹)。
・Miscellaneous Davis 1955-1957, 1955, 7/17
むしろこっちの方がアクセスしやすいかも。
・Miles Davis at Newport: 1955-1975
Miles Davis at Newport: 1955-1975
エリントン・ナンバーのカバーではないけど、
#1にエリントンの紹介アナウンス(Introduction)がある。
上述のエリントンオケへの勧誘後の遭遇であり、そう思って聞くと興味深い。
この55年のニューポートのマイルスは伝説となっている。
なんでも、この時の「Round Midnight」の演奏で一躍スターになった、と伝えられているもの。
その司会をエリントンが行い、
翌56年にはエリントン自身も「Diminuendo and Crescendo in Blue」で劇的なカムバックを果たす。
以上はジャズ史のトリビアといえばそれまでだが、
ここは「菊地=大谷」的な視点から、「父と子の葛藤」を読みとりたい。
「父殺しを果たしたマイルス」と、
「殺されたことによりファルスを回復する機会を得たエリントン」というように。
この後、マイルスはロリンズの代わりにコルトレーンを迎えてオリジナル・クインテットを結成し、
マラソン・セッションを皮切りにCBSに歴史的な名盤を次々に録音していくことになるが、
プレスティッジ時代の最後のアルバムがこれ。
・Miles / The New Miles Davis Quintet, 1955, 11/16
ジャケットも含め、全体的にぼやけた印象のアルバム。
早くプレスティッジとの契約を終了させたかったのか。
『Workin'』~のマラソン・セッションと同じメンバーであり、
同セッションの助走的な意味合いが強いような。
#1で「Just Squeeze Me」をカバーしてるけど、ここでエリントンをカバーする必要があったのか。
エリントンへの態度を考えると、どうにもしっくりこない1曲。
それに比べ、次の演奏はわかりやすい。
・Miles Ahead, 1957, 5/6
#3で「The Duke」を演奏。
この曲はエリントン・ナンバーではない。
Dave Brubeckがエリントンに敬意を表して50年代に作った曲で、
それをマイルスとギル・エヴァンスがカバーした、ということになる。
余談だが、デイヴ・ブルーベックもかなりのエリントン・マニアである。
熱心なジャズ教育者でもあるブルーベックにとって、エリントンはもはや崇拝の対象だった。
そのため、エリントンよりも先に『TIME』の表紙を飾ってしまったことに困惑し、
芸術の評価における人種的な差別の問題について胸を痛めたらしい。
(1954, 11/8号)
でも大丈夫。
その2年後、エリントンも同誌の表紙を飾ることになる。
(1956, 8/20号)
ちなみに、初めて『TIME』誌の表紙を飾ったジャズ・ミュージシャンは
ルイ・アームストロングで、それは1949年2/21号。
Hello! Satchmo!
なお、ブルーベックにはエリントンカバー集もある。
マイルスと同じくニューポートのライブ音源だ。
元ジャケ。 ジャケ違い。
Newport 1958: Brubeck Plays Ellington
ブルーベックについては、本来ならば新たな項目を作って紹介すべきだけど、
それはどうも恐ろしく先の話になりそうなので、とりあえず備忘録代わりにここに書いておこう。
ジャズ教育の話とか、人種問題とかに絡めて書きたいです。
閑話休題。
ただ、この選曲はマイルスというよりもギル・エヴァンスの好みが反映されているかもしれない。
ブルーベックのエリントンへのリスペクトを利用して、
エリントン(又はビリー・ストレイホーン)へのリスペクトの表明。
ギル・エヴァンスの本心はその辺りにあるのではないか。
Gil Evans, 1912-1988
ギル・エヴァンスとは『クールの誕生』からの付き合いだが、
マイルスはギルからオーケストレーション/ハーモニーに関して影響を与え合った。
ギルはエリントン/ストレイホーンからフランス近現代音楽的なハーモニーや音色のセンスを吸収したのであり、
それは確実にマイルスに伝わった。
きっかけはギルだったかもしれないが、マイルスもこの曲は気に入っていたようで、
当時のバンドで演奏してる海賊盤もある。
・Legendary Performance in New York 1959, 4/2
Legendary Performance in New York 1959
#5にThe Dukeを収録。
『Kind of Blue』録音期間中のテレビ出演時の演奏。
これまた余談だが、上記の他に8月25日の演奏も収録されてるが(#1-3)、
この日の演奏はまさに「伝説」。
というのも、まさにこの夜この演奏の後、
マイルスは警官にボコボコに殴られて留置所にぶち込まれた。
その後、ギルとの共同作業は以後『Sketches of Spain』へと向かい、
「The Duke」へマイルスの興味が戻ることはなかったようだ。
…ところが、マイルスは晩年にこんなこともしてる。
・Miles Davis & Quincy Jones Live At Montreux, 1991, 7/8
#3 ~ #9 が『Mileas Ahead』の再演。
死の2ヶ月前ということを考えると、
この再演に色々な意味を読み取りたくなるけど、止めておこう。
これも自己演出の一環か。
エリントンのカバー関係は以上。
なお、上記の59年の『レジェンダリー・パフォーマンス』と『モントルー』の間に
『ゲット・アップ・ウィズ・イット』があるわけだが、
あの「He Loved Him Madly」の録音過程だけを収めたCD(海賊版)もある。
・Session of "He Loved Him Madly, 1974, 6/19
5月24日のエリントンの死から1ヶ月以内に演奏・録音されたこの音楽に関しては、
「ハプニング的に進行し、まるでエリントンの魂がスタジオに降臨したかのような荘厳な雰囲気に包まれていた」
という定説があるが、この録音過程を聴くとそれが都市伝説であったことがわかるようだ。
マイルスは事前に周到な準備を行い、録音も計画通り進められていたことが明らか、らしい。
以上、ざっと「エリントン → マイルス」の影響関係を確認。
「デューク・エリントンはチャーリー・パーカーと並び、マイルス件研究の書物ならば、
まるまる1章を設けなければならないほどの重要人物」(菊地・大谷)だけど、
とりあえず記録面をまとめた。
類似性でいうと、2人とも死の直前まで新たなサウンドを求めていたことが挙げられる。
・doo-bop, 1991, Jan.-Feb.
・New York New York 1970-72
エリントンは67年のストレイホーンの死後、
オルガンや新しいリズムの導入など、より前衛的なサウンドを探求していくことになる。
このアルバムは新曲と旧曲のリミックスとでもいうべき刺激的な新解釈が収録されており、
エリントンの「次の1枚」を期待させるのに十分な内容。
マイルスの『doo-bop』とエリントンの『New York…』のジャケット、
当然のことながら、その挑戦的な眼差しの先にあるのは過去でなく未来だ。
聴いた後に抱くのは「悲しみ」でなく「勇気」。
こうしてみてみると、
年代を下るにつれてマイルスのエリントンへの態度が深化していることに気づく。
エリントン・ナンバーのカバーの有無といった表面的なリスペクト(Perdido, Just Squeeze Me)から、
トリビュート曲の解釈による表現(The Duke)、
人生最悪の時期における全力の追悼(He Loved Him Madly)、
そして音楽への姿勢、父としての振るまい方。
「帝王」と「公爵」が直接交わることはなかったが、
その結果として「帝王」は新たな父性を獲得したのであり、
まさにマイルスはエリントンの背中をみて育った。
高い壁は乗り越えられずに単なる障害物となるリスクもあるが、
その壁を乗り越えたとき、そこには新たな地平が広がる。
マイルスが獲得したのがまさにその地平であり、その後、自身が新たな壁となった。
エリントンとマイルスの関係は理想的な「父と子」の形の1つといえるだろう【1】。
――では、マイルスの壁は乗り越えられたのか?
それはまた別の問題。
クラブなど、音楽の現場で現在進行形だろう。
【注】
1.
マイルスとは正反対の「子」であるウィントンについては別項目で。
しかし、年代的には「子」というより「孫」というべきか。
【参考文献】
・中山康樹/『マイルスを聴け!〈Version8〉』 (双葉文庫)
・菊地成孔・大谷能生/『M/D ---マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』(上) (河出文庫)
・菊地成孔・大谷能生/『M/D ---マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』(下) (河出文庫)
(2016.1)