チャールズ・ミンガス
Charles Mingus Jr. (April 22, 1922 – January 5, 1979)
ミンガスの音楽的人生はエリントンの克服の歴史であった。
そう思ってそのキャリアを眺めてみると、この強面の男がかわいらしい存在に思えてくる。
ミンガスにとって、エリントンは終生「畏怖」の対象だった。
決して「敬愛」なんて軽い感情ではない。
始まりは、ベーシストとして駆け出しの頃、
エリントン・オーケストラに短期間だけ在籍したことに遡る。
残念ながらエリントン・オーケストラでの活動は、
ファン・ティゾールとのいざこざでミンガスがクビになって終わるが(後述の自伝参照)、
以後、ミンガスはことあるごとにエリントンへの「畏怖」を表明する。
願いが叶い、共演を果たしたのがこれ。
・Money Jungle, '62
フリー一歩手前の緊張感あふれる演奏が繰り広げられるが、
一方で #2 の「Le Fleurs Africaines」 など、耽美的な演奏もある。
ミンガスとマックス・ローチはともに黒人公民権運動の闘士であり、
レーベルはブルーノートと、真っ黒なアルバム。
穏健派を貫くエリントンに対して、若い2人が音で挑発してる、という解釈も成り立つかもしれない。
ただ、管理人がこのアルバムを聴いて連想するのは、マイルスのプラグド・ニッケル。
体調不良でダウンしたマイルスが復活してみると、
ハービーらのカルテットが妙にフリー・ジャズ気づいていて、
気合入れて片っ端からマイルスが吹き倒すあのセッションだ。
というか、マイルスほど好戦的ではないが、
お前さんら若いもんがやってる「フリー・ジャズ」とかいう音楽、
そんなの、私は何十年も前からやってたよ、という態度がうかがえる。
・数多くのカバー、オマージュ
ミンガスにとって、エリントンは畏怖の対象であると同時に、
自分自身の成長度合いを測る基準だった。
ミンガスはエリントンオケでのトラウマ、若き日の自分を乗り越える。
・A Modern Jazz Symposium of Music and Poetry (1957)
#4 Duke's Choice
ただし、このアルバムは、Duke's Choice含め、
以後のミンガスから考えると曲の完成度としては試作の段階にあるものといえるだろう。
前年の『直立猿人』、同年の『道化師』と比べると、その完成度はどうしても見劣りしてまう。
試作の段階であったことを示す証拠として、
この曲は後述する『Mingus, Mingus, Mingus, Mingus, Mingus』の「IX Love」に、
そして #2 Nouroog と #4 Duke's Choice、#5 Slippersがまとまって、
『Mingus Ah Um』の「Open Letter to Duke」になると考えられていることが挙げられる。
※ #1のScenes in the City は、
後にブランフォード・マルサリスによってカバーされている。
収録アルバムのタイトルもそのものズバリの『Scenes in the City』(1984)。
これはブランフォードのソロ・デビュー作でもあり、
57年のこの作品以後のミンガスの躍進ぶりも踏まえてのことだとすると、
ブランフォードの野心の大きさをうかがうことができるのだ。
・Mingus Dynasty (1959, 11/1, 13)
#5 Things Ain't What They Used to Be
#8 Mood Indigo
「態勢が整った」ミンガスの意思表明作品。
『直立猿人』(1956)を皮切りに名作を発表し続けたミンガスは、
エリントンオケでの出来事を「昔はよかったね」と言えるまで自己の威信を回復した。
「ミンガス王朝(dynasty)」というタイトルからしてすごい。
わかりやすいなあ、ミンガス。
録音の日付は前後するが、前述の『Poetry ~』収録の「Duke's Choice」を編集して、
同年、『Mingus Ah Um』にて、ミンガスはエリントンにパブリックな近況報告をする。
その曲名も実にわかりやすく、「Open Letter to Duke」。
・Mingus Ah Um (1959, 5/5, 12)
#3 Open Letter to Duke
自信を取り戻したミンガスは、エリントンを演奏することを恐れない。
というか、ミンガスにとってそれだけエリントンの存在が大きかったことに改めて気付かされる。
ウィントンの言葉を借りて「Don't Be Afraid」と言いたくなるほどだ。1)
ビビるなよ、ミンガス。
・Pre Bird (1960, 5/25)
#1 Take The "A" Train
#6 Do Nothing Till You Hear From Me
「バード以前」というタイトルは、
「パーカーの前の音楽」=「バップと関係のない音楽」を示している。
上記のエリントン・ナンバーでは、
2曲ともEric Dolphy と Yusuf Lateef をフィーチャー
(ちなみに、チコ・ハミルトンの元を離れたドルフィーにとって、
この作品が初のミンガス・バンド参加作品。
実はドルフィーはこの直前にハミルトンのエリントン曲集を録音したけど、
そのすべての音源をお蔵入りにされた、なんて話がある(詳しくは 別館に書いた ))。
なお、近作品は『Mingus Revisited』のタイトルでも発表された。
・Mingus (1960)
#1 MDM (Monk, Duke & Mingus)
ジャム・セッションのモチーフとして、モンクとエリントンの曲を断片的に借用。
「モンク」で「Straight, No Chaser」を使うのは普通だが、
「エリントン」で「Main Stem」を持ってくるあたりがミンガスのこだわり。
しかしこれ、考えようによってはテキトーにエリントンを利用している、ともいえるのではないか。
2016年現在では、下のバージョンの方がアクセスしやすいかもしれない。
・Complete 1960 Nat Hent (1960)
・The Complete Town Hall Concert (1962)
#9 Duke's Choice
#11 In A Mellowtone
64年のTown Hall Concertとは別物
(「So Long Eric」「Praying with Eric」だけのものですね)。
興味深いことに、なんとピアノに穐吉敏子のクレジットがあるじゃないか
(もう一人はJaki Byard)。
この後の62年に、ミンガスは冒頭の『Money Jungle』でエリントンとの共演を果たす。
「Open Letter」はたしかにエリントンに届いたのだ。
『Money Jungle』後、ミンガスは積極的にエリントンとの距離を縮めていく。
・Mingus Mingus Mingus Mingus Mingus (1963)
#4 Mood Indigo
巷では「ファイヴ・ミンガス」などという小洒落た略し方があるようだが、
管理人は「ミンガス・ミンガス・ミンガス・ミンガス・ミンガス」という、
オリジナルの暑苦しいタイトルこそ、
この暑苦しいジャケットにふさわしいと思う。
なにしろ、自意識が肥大しすぎて、もはやジャケットに顔が収まりきらないのだから…。
・『MINGUS AT MONTEREY』 (1964, 9/20)
冒頭からエリントン・メドレーを展開。
#1 Duke Ellington Medley:
I've Got It Bad
~ In a Sentimental Mood
~ All Too Soon
~ Mood Indigo
~ Sophisticated Lady
~ Take The "A" Train
・Cornell 1964
#3 Sophisticated Lady
#6 Take The A Train
・Great Concert of Charles Mingus (1964)
#6 Sophisticated Lady でベースソロ。
ソフィスティケイテッド・レディのベース・ソロというと、
ワード・オブ・マウス・ビッグバンドのジャコを思い出す。
というか、そうか、あれはジャコのミンガスへのオマージュだったのか、と今さら気づく。
そして、とうとうミンガスがエリントンに肉薄したのがこれ。
・The Black Saint and the Sinner Lady (1963)
エリントン・ナンバーの演奏こそないが、
ミンガスが最もエリントンに近づき、そして目指すところは大きく異っていたことを示した記録。
ミンガスの作品からは、組曲形式、メンバーのソロ演奏を重視した作曲方法などに
エリントンの影響を色濃くみることができる。
だが、インタープレイのタイミング、そのダイナミクスまで細かく指定されているかのような、
時に息苦しさを感じるほどの神経症スレスレの完璧主義は、エリントンの音楽にはないものだ。
ミンガスによるエリントン・ミュージック解釈の到達点。
翌64年、ミンガスはエリック・ドルフィーとの最後の蜜月を迎え、音楽的なピークを迎える。
このとき、ミンガスはエリントンという父を殺すことに成功した。
もっとも、この充実期間はドルフィーの急死により超短期間で途切れてしまい、
その後の数年間は音楽的・精神的にもdepression期に突入してしまうのは皮肉というべきなのだが。
・Mingus at Carnegie Hall (1974, 1/19)
#1 C Jam Blues
#2 Perdido
全2曲、大セッション大会な1枚。
両方ともエリントン・ナンバー!
…といっても、ブルースに循環系なので、
セッションに手頃な題材、として選ばれたのだろう。
深読みするなら、エリントンの曲をそのように扱えるようになるくらいまでに自意識を高めた、
ともいえるだろう。ジャケットに自分自身を3人も登場させていることもそれを象徴しているのかもしれない。
だが、その思いは早々に反省を迫られることとなる。
この年の5月24日、エリントン、没。
・Changes One (1974, 12/27-28, 30)
#4 Duke Ellington's Sound of Love
・Changes Two (1974, 12/27-28, 30)
#4 Duke Ellington's Sound of Love (with vocal, Jackie Paris)
#5 For Harry Carney
『Changes One 』、『Changes Two 』ともに
エリントンの没後の収録。
同年1月の『Carnegie Hall』とは打って変わって、ジャケットにミンガスは1人も登場しない。
まるでエリントンへの喪に服しているかのようである。
両作とも#4にエリントンへの追悼である「Duke Ellington's Sound of Love」を収録。
エリントン曲でなく、自作曲・自分の音楽で追悼する姿こそ、ミンガスの成長の証と言えるだろう。
この素っ気ないジャケット、そして、アレンジこそ違うものの、
同じ曲を2回録音しなければならなかったことから伝わってくるのはミンガスの喪失感だ。
この姿はマイルスの「He Loved Him Madly」に重なる。
ミンガスはこの74年を境にdepressionから回復し、
77年に晩年の傑作、『Cumbia And Jazz Fusion』を創りあげる。
そこにエリントンの父性がどれほど影を落としているのかは分からないが、
マイルス同様、ミンガスにも74年という年が重要な1年であったことがうかがえるのである。
・エリントンとの共通点・相違点
ミンガスの曲は、一聴してミンガスの曲だとわかる。
いわば「ミンガス」の刻印がされており、
この「一聴しただけで誰の作品かわかるほどの独創性」はエリントンに共通するものだ。
ただし、その表現しようとするものには大きな違いがある。
そのため、実はその表現方法では共通するところも多いのだが、
エリントンとミンガスの音楽について共通点が指摘されることは少ない。
少しこのことについて考えてみる。
エリントンとミンガスの共通点というと、
真っ先に思い浮かぶのは「作曲における構成の重視」である。
または「組曲志向」といってもいい。
両者とも、組曲にかぎらず、1曲の構成においても、アンサンブル、ダイナミクスなどはもちろん、
ソリストの指定、順番、フレーズまで細かく指定されている。
これは、ヘッドアレンジだけでリフを繰り返し、
ひたすらグルーヴを追求するベイシーとは正反対の音楽だ。
これに付随して、「曲中のソリストの重要性の高さ」も挙げられる。
ただし、エリントンがソリストの演奏に関しては、
比較的自由にやらせている(ように見える)のに対し、
ミンガスはかなり細かいところまで指示・コントロールしているように思われる。
よくいえば緊張感が高く、悪く言うならばミンガスバンドのソリストの演奏は息苦しく聴こえる。
他の細かい点では、トランペットパートのプランジャー・ミュートの使用もあるが、
これは純粋にミンガスがエリントンの影響を受けたのかもしれない。
以上に反して、相違点として挙げられるのはその「表現しようとするもの」である。
エリントンは様々な事象・風景を叙事的に表現することを好み、
その表現方法として繊細・独自のハーモニーを生み出すに至った。
これに反し、ミンガスが表現しようとするものは心象風景・感情であり、
その表現方法として、直截的なメロディー、曲の展開を重視した。
そのため、ミンガスの音楽はすごくわかりやすい。
怒りや悲しみ、嘲笑といった感情を表現していることが容易に伝わってくる。
この直截性こそ、ミンガスとエリントンの音楽の相違点を際立たせるものでないだろうか。
例えば、「Sophisticated Lady」で表現されているものは何か?
ある洗練された女性への恋愛感情?
それとも「洗練された女性」一般に対する憧憬?
洗練された女性が身近にいた自分の幼年期への郷愁?
またはもっと抽象的に、「美そのもの」に対する畏敬の念?
…どれも正解であり、そのどれにも「それだけではない」という不十分な感覚がつきまとう。
一義的な感情・意味に回収することができない音楽。
これがエリントンの音楽の魅力であり、エリントン自らが「Blue」と呼んだ雰囲気だ。
エリントンとミンガスの音楽は、近くて遠いところにある。
両者の音楽については、とりあえずこうまとめておこう。
さて、音楽性、というよりも人生・生活面に焦点を合わせたドキュメンタリー、
"Triumph of The Underdog"にもエリントンについての言及がある。
ミンガスは自伝も書いてて、翻訳も出てる。
自伝には音楽に関する記述は少ない。
自己嫌悪(自己愛?)丸出しの文体で、主に少年時代からの恋愛と性活動が露悪的に綴られる。
どれくらい露悪的かというと、読んでいる間はブコウスキーを読んでいるのかと錯覚してしまうほど
(そういえば、2人ともファースト・ネームが「チャールズ」だ!)。
ミンガスの音楽についての記述を期待して読むと退屈に感じるかもしれない。
自伝から、エリントンとミンガスの象徴的なエピソードを見てみよう。
……で、その後どうした?今度はデュークその人と一緒の仕事をつかむ。彼こそ英雄だ、このバンドならやめない、しかしここでもまたトロンボーン奏者で編曲者のファン・ティゾールとの事件で、脱けてくれと言われる。ティゾールは自分の書いた弓を弾かねばならぬソロをオマエにやらせたいのだ。少しはましな箇所を1オクターブ上げて演奏する。それが彼の気に入らない。休憩時間に君がステージの下の部屋で練習していると、彼がやって来て、オマエも所詮他の黒んぽと同じだな、楽譜が読めないんじゃと言う。じゃあんたは黒んぼとどこが違うんだと聞くと、俺は違う、俺は白人だとのたまう。そこで奴を階上まで追っかけてゆく。控室から出て、ベースを持ってステージに上り席につくと同時に、デュークが『Aトレイン』の棒を振り下ろす、そしてアポロ劇場の幕が上り、叫声を発し、わめき散らしながらティゾルが飛び出して、オマエ(管理人注:ミンガスのこと)にむかって軍隊ナイフを突き出す。その夜のことは、演奏が終って控室で着換えを終えたデュークの口からあらましを聞くまでほとんど覚えていないのだ。
「なあチャールズ」と彼は、カルティエのカフスボタンを、しゃれた手作りのシャツの穴に通しながら、愉し気に言う.「前もって警告しといてくれればよかったんだよ――あれじゃこっちはツンボ桟敷(訳書ママ)じゃないか! 少なくともコードで合図ぐらいしてくれても良かったじゃないか、あんなニジンスキーばりの立ち廻りを始めるときにさ。君の演奏の出来栄えはうれしかったが、それにしてもどうして君もファンも僕に知らせてくれなかったのかな、君たちのアダージョの計画をさ、そうすりゃ総譜に書き込めたんだ。君みたいに大男であんな敏捷な男は初めて見たと言えるな、――あんなケタ外れの跳躍をする人は今まで見たことがないよ! ベースを抱えたままでピアノの上の跳ね廻りなんか巨人的さ。その後君がイキマイたとき、僕は考えたね、(あの男は本気でファンのナイフを恐れてる、あの速さですっ飛んで行ったら、今頃はもう家に帰って寝てるだろう)ところがさにあらず、君はベースをしっかり持ったまま同じドアから舞い戻ってきた。一瞬僕は着席して弾く気になったのかと期待したんだ、だがそれどころか君はファンの椅子を防火用の斧で二つに切り裂いてしまった。本当だよ、チャールズ、凄まじいもんだった。ファンがナイフを持ってるってことは皆も知ってるけど、誰も真に受けちゃいない――彼はひっぱりだして、皆に見せるのが好きなんだ、分るだろ。だからすまないけどチャールズ――僕は人を首にしたことはないんだけど――君には僕のバンドをやめてもらうよ。これ以上悶着はごめんだ。ファンは昔から問題だったんだ、そいつは僕が何とかできる、しかし君の場合は何が飛び出してくるか全く見当がつかないんだ。君の辞表をどうか気を悪くしないで提出してもらえないだろうかね、ミンガス」
なんとチャーミングな話し方だったろう、賞められているかのようなのだ。光栄に浴した感じで握手をかわし、オマエは退きあげる。
それからどうなるんだい? また賃仕事に戻るわけだ。ボストンあたりに行ってストーリーヴィルでしけた演奏をする。ボストンでオマエは非常に感受力の強いナット・ヘントフという奴にラジオ番組でインタヴューを受け、以来、本当に話しあえる白人の数少ない仲間になったのだ。後によく深夜苦しくなったり答えの出ない大きな疑念が目の前をふさぐようなとき、彼に手紙を書くのが習慣になっていったが、ヘントフは疑念の意味を常によく解し、黄色い紙にすべて大文字でまるで電信文のような返事を送ってくれるのだった。……
(訳書『ミンガス』352-354頁)
これは1953年のこと。
この時期、エリントンはメンバーのことで頭を悩ませていた。
ルイ・ベルソンがバンドを卒業する、まさにその最後の公演の1週間に生じた出来事。2)
このとき、レギュラーのベーシスト、ウェンデル・マーシャルは自分の結婚のため公演は欠席しており、
ミンガスはその代役で演奏していた。
ファン・ティゾールは「ホッジスの乱」を救った功労者であり、
ティゾールへの狼藉に対する処罰は当然、だろう。
エリントンに関する言及でいうと、他にはブリット・ウッドマンとの親交(というか腐れ縁)が語られているくらい。
しかし、これも音楽的な内容というよりも若き悪行に関するものが主。
最後に、ケチ臭い話で恐縮だけど、ミンガスの自伝、3,800円(税抜)というのは高いよね、やっぱり。
1)
ウィントン・マルサリスが音楽監督を務める、
ザ・リンカーン・センター・ジャズ・オーケストラのミンガス・トリビュート・アルバムに、
『Don't Be Afraid: The Music of Charles Mingus』というものがある。
2)
ルイ・ベルソンはこの2年前の1951年、いわゆる「ホッジスの乱」でソニー・グリアからドラムを引き継いだ。
「ホッジスの乱」でバンドを去ったのは、ホッジス、ソニー・グリア、ローレンス・ブラウン。
その代わりにエリントンはファン・ティゾールを当時在籍していたハリー・ジェイムス・バンドから呼び戻し、
一緒にルイ・ベルソン、ウィリー・スミスもオーケストラに迎え入れる。
つまり、ミンガスのこのドタバタはホッジス不在の時期の出来事。
(2016.7)