(Irving Mills, 1894, 1/16 - 1985, 4/21)
ミルズは1926年から39年まで、エリントンの音楽活動のすべてのマネジメントを行った。
ミルズのマネジメントは賛否両論。そのプロデュース・ワークにより初期のエリントンの知名度を上げた、という声もあれば、作詞家として強引に自分の名前をクレジットしたり、諸契約の上前をはねて不労所得をもぎとった、という声もある。
(新しく設立されたエリントンのマネジメント会社では、株の持分割合はミルズ45%、エリントン45%とされている(残りの10%は顧問弁護士))。
ただ、なんといっても「コットン・クラブ」の専属契約を勝ち取ったのはミルズの功績だし、エリントンのブラック・ミュージックが白人社会に受け入れられたのは、白人のミルズが白人社会へのコネクションをもっていたからだろう。
「エリントン・ミルズ問題」はショービジネス界、人種問題に関わることであり、当時の社会状況を考慮する必要があるだろう。同様の問題は以後のアメリカの芸能界で幾度となく繰り返されていく。
特にジャズに関して焦点を当てた研究書はこれ。エリントンとミルズの関係については183-187ページで言及されている。
"Where the Dark and the Light Folks Meet Race and the Mythology, Politics, and Business of Jazz"
(Randall Sandke, Scarecrow Press, 2010)
エリントンに限らず、他のジャズ・ミュージシャン一般について関心がある人にとっても重要な文献。
Where the Dark and the Light Folks Meet Race and the Mythology, Politics, and Business of Jazz
写真は左からエリントン, ミルズ, キャブ・キャロウェイ。
エリントンとキャロウェイはともにミルズのクライアントだった。
Millsのクレジットがあるのは、例えば「Mood Indigo」「Solitude」「It Don't Mean A Thing」「Sophisticated Lady」「Caravan」「Prelude to A Kiss」などなど。
「…本当に?」
これがいわゆる「エリントン・ミルズ問題」だが、2人は39年に円満に決別する。このあたり「金持ちけんかせず」な雰囲気もあるが、実際のところはよくわからない。ただ、その後もエリントンはミルズと仕事をしているし、後年のコメントをみても、エリントンがミルズのマネジメントに強い不満をいだいていた事実はない。
同年、入れ替わりにエリントンのパートナーとなるのがビリー・ストレイホーン。エリントンはマネジメントされる方からする方にまわることになる。もしかしたら、「エリントン・ストレイホーン問題」はこの点からも考える必要があるのかもしれない。
【参考文献】
Where the Dark and the Light Folks Meet Race and the Mythology, Politics, and Business of Jazz
(Randall Sandke, Scarecrow Press, 2010)