『極東組曲(Far East Suite)』を聴いて何か感じるものがあったあなた!
おめでとう!
あなたには、エリントンの音楽の「ワールドミュージック」的な要素を楽しめる感受性があります。
エリントンは「ジャズの父」「ジャズを始めた人間」ということになってはいますが、
実際のところエリントンがどこまで「ジャズ」を意識していたかはわかりません。
そもそもエリントンが音楽人生のはじめにコットンクラブで人気を博したのも、
「ジャングル・サウンド」なるエキゾチシズム満載な「いかがわしい音楽」だったわけで、
むしろ、こういう「異文化を独自に解釈した音楽」(「曲解」ともいう)にこそ、
エリントンの本質があるとも言えるでしょう。
その音楽的キャリアを民族音楽を独自に解釈することによってスタートさせたエリントンは、
晩年、再びこのスタンスを積極的に採用するようになります。
'71 (Fantasy)
文明の発達による文化の混淆をテーマにした作品。
冒頭を飾るのは、「全世界がオリエンタル化しつつある」というマクルーハンの学説を引いた、
1分半にわたるエリントン自身の紹介アナウンス(全文は こちら )。
その引用に沿う形で、主に中国、オーストラリア、アフリカの音楽について、エリントンが独自の解釈を行っていきます。
豪華絢爛な王朝文化を描き、晩年のコンサートでは欠かせないレパートリーとなった#1「Chinoiserie(中国趣味)」、
オーストラリア発祥の「ワルチング・マチルダ(Waltzing Matilda)」とゴスペルを融合させた「TRUE」*、
トーキング・ドラムを描いた「Afrique」など、全8曲と曲数は多くないものの、聴きどころ多し
(* ライナーノーツのStanley Danceによる)。
ストレイホーン、ホッジスは既に亡くなっており、
レイ・ナンス、ジミー・ハミルトン、サム・ウッドヤードもオケを去ったこの時期のサウンドは、
残念ながら55年体制に慣れた耳にはさびしく響くのも事実です。
しかしその分、これまでのスター・プレイヤーの力量・クリシェに頼らない、
老エリントンの新たなアイデアを模索する創造的な姿が浮かび上がるわけで、その意味でも興味深い1枚です
(バリトン・サックスをオーストラリアの伝統楽器「ディジェリドゥ」に見立てたり、
ブロークン・ビーツらしきものを取り入れてみたり、メロディにオルガンを重ねてみたり、
テナーのソリストにハロルド・アシュビーを採用し、ポール・ゴンザルヴェスとのWキャストにしてみたり…)。
ここで思い出すべきなのは、43年初演の『Black, Brown and Beige』は、
アメリカに連れてこられたアフリカ人がアメリカ社会・文化に溶け込んでいく様を描いた組曲だったことです。
エリントンにとって、「文化の混淆」は終生考え続けたテーマだったといえるでしょう
(ただし、マクルーハン解釈に顕著ですが、エリントンの異文化への態度にはある種の偏りがみられます。
このエリントンの偏り、および冒頭アナウンスの全文書き起こしについては こちら に書きました)。
民族音楽家としてのエリントン、晩年のエリントン・サウンドを聴くならこの1枚。