(Juan Tizol, 22 January 1900 – 23 April 1984)
在籍期間: 29-45, 51-53, 61年
エリントンの1歳年下のバルブトロンボーン奏者にして、
「Caravan」「Pyramid」「Perdido」の作曲者。
知名度、エリントン・サウンドへの貢献度は、
tb奏者としてよりも作曲者としての方が高いかもしれない。
ティゾールの書いた曲は、エキゾチシズムを売り物にしていた
初期のエリントンオケの重要なレパートリーとなった。
その作曲センスは、ティゾール自身がプエルトリコ出身であることから来ているのかもしれない。
知名度の高い上記3曲のほか、「Moonlight Fiesta」「Conga Brava」なども作曲。
特に、Blanton-Webster Band時代のラテン風味には欠かせない存在だった。
1900年生まれのエリントンの1歳年下ということもあり、
エリントンも頼りにしていたのではないか。
エリントンオケには、まず29年から44年まで在籍し、その後ハリー・ジェイムスのビッグバンドに移籍。
しかし、以後も51-53年、60-61年にエリントンオケへ一時的に戻ったりもした。
特に重要なのは51-53年のオケ復帰で、
この、ホッジスがローレンス・ブラウン、ソニーグリアとともにオケを脱退した「ホッジスの乱」のときには、
エリントンに呼び戻され、当時在籍中のハリー・ジェイムスバンドから、
ウィリー・スミスとルイ・ベルソンとともにエリントンオケに帰還し、オーケストラのピンチを救う。
ジャズ史では「ジェームス大強奪("The Great James Robbery")」と呼ばれる事件の立役者。
つまり、ティゾールはエリントンにとって「ホッジスの乱」を救った恩人なのであり、
この恩人と刃傷沙汰スレスレの騒ぎを起こしたミンガスはオケを退団せざるをえないのは当然のことだったといえる。
しかもこれはルイ・ベルソン卒業公演の最中なわけで、この頃からミンガスはトラブルメーカーだった。
その言動にブレはない(もっとも、ミンガスはその10年後の62年、
『Money Jungle』でこのときの醜態を帳消しにするほどの好演奏を行うわけで、
みごと汚名を返上したことも述べておくべきだろう。これについては ミンガスの項 で)。
84年に亡くなるまで、ウエスト・コーストに住む。
ルイ・ベルソンや、ナット・キング・コールなどとも交流あり。