エリントンの簡単な年表を記す。
ワシントニアンズとして本格的に音楽的キャリアを開始してからはほぼ1年毎の記録。
1899 4/29, ワシントンDCにて、James Edward Ellington と Daisy Ellington との間に生まれる。
本名の Edward Kennedy EllingtonのKennedy は母親の旧姓。
父のジェイムズは著名な白人医師Middleton F. Cuthbert の執事であり時々ホワイトハウスへの仕出し業も行っていた。
1906 地元の教師であるMrs. Clinkscalesからピアノの初レッスンを受ける。
だが、ピアノよりも野球のほうが好きだった。
1913 アームストロング高校に入学。グラフィックアートを学ぶ。
1914 ある休日にニュージャージーでピアニストHarvey Brooksの演奏を聞き、ピアノに興味を持つ。
Frank Hollidayのビリヤード場でワシントンのミュージシャンに出会う。
処女作「Soda Fountain Rag」を作曲する。
1915 「Duke」と呼ばれるようになる。
8月、妹Ruth誕生。
1916 ワシントン周辺でバンド活動を始める。
1917 2人の友人、トランペットのArtie Whetselとサックス奏者のOtto 'Toby' Hardwickとともに活動。
リーダーはボルティモアのバンジョー奏者、Elmer Snowden。
エリントンは学校を退学する。
1918 7/2 , Edna Thompsonと最初の結婚。
The Duke's Serenaders 結成。
1919 3/11, 長男 Mercer Kennedy Ellington 誕生。
Sonny Greerと知り合う。
1920 2人めの子どもが死産。
ニューヨークのストライド・ピアノの第一人者であるJames P. Johnsonに、
課題曲ともいえる「Carolina Shout」を演奏する。
1921 スノウデン、ウェッツェル、ハードウィック、Sonny Greerとともに初めてNYを訪れ、
ピアノ奏者のWillie 'The Lion' Smithに会う。
1923 NYでグリーア、ハードウィックとともにクラリネット奏者のWilbur Sweatmanのバンドに加わるが、
仕事と資金が尽きてワシントンに戻る。
6月にはウェッツェル、スノウデンらとともにNYでの仕事を受けるが実現せず。
スノウデンをリーダーとして、ハーレムのExclusive Clubの仕事に就く。
その後、ミッドタウンのHollywood Club
(火事の後、Kentucky Clubとなる。なお、正しくは"the Club Kentucky")の専属になる。
Snowdenが脱退してエリントンがリーダーとなり、
このときバンド名を The Wasingtonians とする。
1924 一連の火災により、クラブは断続的に閉店。再建の間、バンドはニューイングランドを演奏旅行。
作詞家の Jo Trent とともに曲を書き始める(「Pretty Soft for You」など)。
バンドのBubber Miley(tp)、Charlie Irvis(tb)とももにリーダーとして初の録音を行う。
1925 エリントンとトレントの曲を含むレヴュー、「Chocolate Kiddies」がドイツで公演。
作曲家 Will Marion Cook と Will Vodery に作曲を学ぶ。
1926 ジョー・「トリッキー・サム」・ナントン(tb)とウェルマン・ブラウド(b)が入団し、バンドは拡大。
出版人アーヴィング・ミルズがオケのマネジメントを引き継ぐ。
マイレーとともに「East St Louis Toodle-oo」を作曲。オケの代表曲となる。
Vocalionに録音。
1927 Brunswick、 Columbia、OKeh、Victor に、異なる名義で録音。
「Black and Tan Fantasy」「Creore Love Call」を作曲し、Adelaide Hall の言葉無しのボーカルで録音。
12月4日、バーニー・ビガードとハリー・カーネイを加えて、NY、ハーレムのクラブ「the Cotton Club」に出演開始
(第1期コットン・クラブ時代)。レヴューに「ジャングル・ミュージック」を提供した。
このクラブからの放送により、エリントンの音楽が北米全体に知れ渡ることとなった。
1928 ジョニー・ホッジス入団(as)。
「The Mooche」「Black Beauty」を録音。
女優 Fredi Washington との情事が原因で妻エドナに顔を切りつけられ、エドナから離れる(離婚はせず)。
1929 ウェッツェル、フレディ・ワシントンとともに短編映画『Black and Tan Fantasy』に出演(制作はNY)。
Florenz Ziegfeldのレヴュー『Show Girl』にオケが出演。
飲酒癖のためマイレイを解雇し、クーティ・ウィリアムズが入団。
ファン・ティゾール(vtb)入団。
両親、妹、息子をNYへ転居させる。
1930 ブロードウェイでモーリス・シュヴァリエのバック音楽を担当。
コットン・クラブの夏期休業期間中、オケはハリウッドに向かい、『Check and Double Check』に出演。
「Mood Indigo」「Rockin' in Rhythm」作曲。
1931 「Creole Rhapsody」が、ポピュラー音楽では初めて78回転の10インチレコードの両面録音を行った曲となる。
コットン・クラブのハウスバンドをやめて、公演旅行を始める。
シカゴではIvie Anderson、ロサンゼルスではローレンス・ブラウンが入団。
1932 アイヴィ・アンダーソンが最初のレコード「It Don't Mean a Thing (If it Ain't Got that Swing)」を録音。
NYのColumbia UniversityでPercy Grainger の授業でジャズを実演する。
1933 最初の渡欧公演旅行。
ロンドンではPalladiumで演奏し、英国王室に謁見。その後、パリのSalle Pleyel で演奏。
1934 2本のハリウッド映画、『Murder at the Vanities』『Bell of the Nineties』に出演、オケが音楽を担当。
母、Daisy は癌が明らかになりワシントンに戻る。
踊り子の Mildred Dixon と関係を持ち始める。
レックス・スチュアート入団。
1935 主に初期のエリントンの音楽と、ビリー・ホリデイのブルースを収めた『Symphony in Black』が公開。
5月にデイジーが死亡。深い悲しみに落ち込む。
9月、78回転盤の4面を費やして「Reminiscing in Tempo」を吹き込み、母を追悼。
1936 ティゾールと「Caravan」を作曲。
(前年のハーレムでの人種暴動の影響で、コットン・クラブが一時営業中断、年内にブロードウェイ48番街で営業再開)
1937 アーヴィング・ミルズ、「Master」「Variety」レーベルを起ち上げ、エリントンも両レーベルに録音するも、その年中に破産、両社をコロンビアに売却。
父、ジェームズはアルコール中毒の治療を受ける。アーサー・ローガン医師と出会い、以後、主治医兼親しい友人となる。
ミルドレッド・ディクソンと別れ、コットン・クラブのコーラス、Evie Ellis と関係をもつようになる。
レギュラーバンドだったキャブ・キャロウェイの後をついでコットン・クラブで上演
(第2期コットン・クラブ時代。上演は断続的に翌年にも行われる)。
12月、父ジェームズ死亡。
1938 クーティ・ウィリアムズ、ジョニー・ホッジス、ハリー・カーネイがベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートに出演
(エリントンは出演せず)。
第1期に続き、コットン・クラブからライブ中継放送。
公演旅行中のピッツバーグでビリー・ストレイホーンに出会う。
1939 二度目の渡欧。英国では労働許可が下りずに大陸に渡る。
ストックホルムで40歳の誕生日を祝う(このときの記念に、後に「Serenade to Sweden」を作曲)。
アーヴィング・ミルズと円満に袂を分かつ。
ストレイホーンが正式にエリントンオケに入団し、「Something to Live For」を合作。
ジミー・ブラントン(b)、ベン・ウェブスター(ts)入団。
1940 Victor と契約を結び直す(アフロ・アメリカンのレコードとしては唯一の75セントのプレミアム盤としての契約)。
「Ko-ko」「Concerto for Cootie」「In a Mellotone」「Jack the Bear」「Cottontail」「Dusk」「Warm Valley」録音。
クーティ・ウィリアムズが退団し、ベニー・グッドマンのバンドに入団。クーティに代わり、レイ・ナンス入団。
1941 ASCAP とラジオ局の著作権料の支払に関する紛争により、ASCAPメンバー(エリントン含む)の曲のラジオ放送が禁じられた。
そのため、オケのテーマ曲となったストレイホーンの「Take the "A" Train」や、
いまやベテランとなり、自身のバンドも率いるマーサーの「Things Ain't What They Used to Be」などがラジオの定番曲となる。
ロサンゼルスではエリントンが音楽を担当した「Jump for Joy」が公演されたが、ブロードウェイに係るまでのヒットにはならず。
1942 西海岸への公演旅行中、バーニー・ビガードとハーブ・ジェフリーズが退団。アイヴィー・アンダーソンもこれに続いて退団。
結核のため、ジミー・ブラントン死亡。
アメリカ音楽家連盟(American Federation of Musicians, AFM)が会員の録音を禁ずる。
1943 1月のカーネギー・ホールでのコンサートで、複数楽章から成るアフリカ系アメリカ人の歴史を綴った『Black, Brown, and Beige』を公演。
レックス・スチュアートとベン・ウェブスター退団。これに代わってタフト・ジョーダン(tp)とアル・シアーズ(ts)入団。
1944 キャット・アンダーソン(tp)入団、ティゾール退団。
Victor と AFM は和解し、12月に「I'm Beginning to See the Light」ほか、『Black, Brown, and Beige』の曲を録音。
1945 アメリカ財務省の代表として、戦時国債(Victory Bonds)の販売を放送で呼びかける。
ラッセル・プロコープ加入。
1946 オットー・ハードウィク退団。「トリッキー・サム」ナントン死亡。
ミュージックラフト・レコード社(Musicraft Records)と契約を結ぶが、同社はこの契約を買戻し、契約を取消すこととなる。
12月にはブロードウェイでエリントンとストレイホーンの音楽による『ベガーズ・オペラ』の公演が行われたが、満足な成功は収められなかった。
1947 リベリアから建国100周年を記念して、「リベリア組曲」の作曲を依頼され、カーネギーホールでこれを演奏。
Columbiaと再契約。
1948 レイ・ナンスと歌手のケイ・デイヴィスを連れて渡欧。
当時イギリスでは外国人の音楽家による国内公演が禁止されていたため、ロンドンのリズム・セクションと伴に喜劇の公演を装った。
1949 25年間在籍したフレッド・ガイが退団。
1950 エリントンLP第1作目作品『Masterpieces by Ellington』録音(発表は翌51年)。
ヨーロッパ公演(イギリスを除く)。
ポール・ゴンザルヴェス入団。
1951 「ホッジスの乱」。
ジョニー・ホッジスがローレンス・ブラウン、ソニー・グリアを連れてオーケストラを脱退し、
自分のバンドを結成。
この危機を脱するため、当時ハリー・ジェイムスバンドに在籍していたファン・ティゾールを呼び戻し、
同バンドのウィリー・スミスとルイ・ベルソン(ベルソンはティゾールの親しい友人でもあった)をオケに加えた
(「ジェームス大強奪」)。
1953 妻である歌手のパール・ベイリーと自分の音楽をするため、ルイ・ベルソン退団。
Capitol Recordsと契約。
最後のヒット曲「Satin Doll」を録音(曲のみ。歌詞は58年)。
1955 オケを維持するため、ニューヨーク郊外のフラッシング・メドウズの円形劇場でエリオット・マーフィーの「Aquashow」に出演
(スプリングスティーンのライバルとも言われたエリオット・マーフィーとは同姓同名の別人)。
ホッジス再入団、サム・ウッドヤード入団(「55年体制」の確立)。
Capitolとの契約終了。
1956 ロードアイランドで開催されたNewport Jazz Festival で、ポール・ゴンザルヴェスの「Diminuendo and Crescendo in Blue」で
27コーラスに及ぶグルーヴィーなソロが炸裂し、劇的なカムバックを果たす。
『Time』の表紙を飾る。
今後、作品のクレジットはストレイホーンも共有することに同意。
Columbiaと再契約。
1957 テレビ・ミュージカル『A Drum is a Woman』放映。
シェイクスピア作品の登場人物に着想を得た組曲『Such Sweet Thunder』を録音、発表。
(カナダ、オンタリオ州のストラトフォードでの初演、録音開始は56年)
1958 英国トロンボーン奏者 Ted Heath のバンドと交換演奏旅行で渡英。
Leeds Festival でエリザベス女王Ⅱ世に謁見。
1959 『The Queen's Suite(女王組曲)』を録音し、2枚だけプレス。1枚は女王陛下に、1枚は自分のため。
オットー・プレミンジャーの法廷劇、『Anatomy of a Murder』の映画音楽を書き、自身も出演。
1960 ラスベガス滞在中に Fernanda de Castro Monte に出会い、以後、内縁の妻としての立場を確立する
(Evie (Beatrice Ellins) との関係は変わらず)。
ローレンス・ブラウン再入団。
9月、モントレー・ジャズ・フェスティバルで『木曜組曲(Suite Thursday)』初演。
(ジョン・スタインベックのモントレー地方に関する小説、『楽しい木曜日(Sweet Thursday)』に触発された)
映画『Paris Blues』の音楽を担当(ポール・ニューマン、シドニー・ポワティエ、ルイ・アームストロングが出演)。
1961 ルイ・アームストロング、コールマン・ホーキンスとそれぞれ小編成で録音。
カウント・ベイシーとはビッグバンド同士で録音(『First Time!』)。
ラスベガスで4人の団員がドラッグで逮捕。
1962 クーティ・ウィリアムズ再入団。
『Money Jungle』録音。
1963 奴隷解放宣言から100 周年を記念したエキシビジョン「A Century of Negro Progress」に合わせ、シカゴにて『My People』作曲。
キング牧師と知り合う。
アメリカの音楽大使として、中近東とインドへのツアーを行う。
フランク・シナトラの新レーベル、Repriseと契約。
スウェーデンの歌姫、アリス・バブスと知り合い、パリで即録音。
1964 日本公演。
マーサー・エリントンがロード・マネージャー兼、4番トランペットとして入団する。
1965 サンフランシスコのGrace Cathedralで 『First Sacred Concert』 公演。
ピューリッツァー賞音楽部門の審査会はエリントンに特別賞贈呈を提案したが、運営委員会が拒否。
1966 ヨーロッパ、アフリカ、日本へ公演旅行。
『極東組曲(Far East Suite)』録音。
Coventry Cathedralで『First Sacred Concert』公演(他多数)。
エドナ・エリントン、がんで死亡。
1967 ビリー・ストレイホーン死亡。
『ビリー・ストレイホーンに捧ぐ』 録音。
1968 アリス・バブスを迎え、ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂で『Second Sacred Concert』初演。
『極東組曲』でエリントンとストレイホーンがグラミー賞受賞。
ジミー・ハミルトン退団。
メキシコとラテン・アメリカへ公演旅行。
1969 70歳の誕生日に、ホワイトハウスにてニクソン大統領から「大統領自由勲章」を授与される。
このときの録音は
1970 4月、New Orleans Jazz Festivalにて、「New Orleans Suite」(ニューオリンズ組曲)発表。
ジョニー・ホッジス死亡。 ローレンス・ブラウン退団。
アルバン・エイリー(Alvin Ailey)とAmerican Ballet Theatre のために「River」を作曲。
1971 初のソヴィエト連邦訪問を含む公演旅行。
晩年の代表作『Afro-Eurasian Eclipse』を録音、リリース。
1972 日本、フィリピン、タイ、シンガポール、インドネシア、オーストラリアへの公演旅行。
『Latin American Suite』を発表 (但し、録音は68年、70年)
1973 再びアリス・バブスを迎え、Westminster Abbeyで『Third Sacred Concert』初演。
ロンドンのPalladiumで勅命により演奏。
ザンビアとエチオピアへ公演旅行を行い、ハイレ・セラシエ皇帝から「Emperor's Star」を授与される。
自叙伝『Music is My Mistress』発表。
主治医のアーサー・ローガンが橋から転落死。
1974 がんで倒れ、デトロイトから飛行機でニューヨークへ戻る。
Columbia Presbyterian Hospital の Harkness Pavilion に入院。
入院中も喜劇オペラ「Queenie Pie」を書き続ける。
75歳の誕生日を病室で祝うが、5月24日の午前3時10分、同病室で死亡。
※ 本年表は、David Bradbury "Duke Ellington (Life & Times)" の巻末年表を参考にし、これにその他の事項を管理人が追加した。