ボリス・ヴィアン
(Boris Vian / March 10 1920 - June 23 1959)
「人生では、あらゆることについてアプリオリな判断をすることが大切だ。そうすれば、大衆は誤り、個人は常に正しいってことがわかるだろう。
でも、そこから行動のルールを導き出すなんてことは避けるべきだ。従うべきルールなんて作る必要はない。
ただ、2つのものだけがあればいい。
1つは恋愛。とにかくかわいい娘との恋愛。
もう1つは音楽。それもニュー・オリンズかデューク・エリントンの音楽だ。他のものはなくなってしまえばいい、醜いんだから。」
(『日々の泡』 序文)
(Dans la vie, l'essentiel est de porter sur tout des jugements a priori. Il apparaît en effet que les masses ont tort, et les individus toujours raison.
Il faut se garder d'en déduire des règles de conduite : elles ne doivent pas avoir besoin d'être formulées pour qu'on les suive.
Il y a seulement deux choses :
c'est l'amour, de toutes les façons, avec de jolies filles, et la musique de la Nouvelle-Orléans ou de Duke Ellington. Le reste devrait disparaitre, car le reste est laid
"L'Écume des jours" )
エリントンを紹介するとき、必ずと言ってもいいほど枕詞として引用される言葉が2つある。
ひとつはマイルスの「すべての音楽家は自分の楽器を置いてエリントンにひざまずき、感謝の念を示すべきだ」で、
もうひとつがボリス・ヴィアンのこの「世の中には2つのことがあればいい。つまり、可愛い女の子との恋愛と、デューク・エリントンの音楽」という言葉。
ここまで言うくらいあって、ヴィアンはかなりのエリントン・ファンだった。
ボリス・ヴィアンは、フランスの作家/ジャズ・トランペッター/シャンソンの作詞作曲家/俳優。
39歳の若さで亡くなったにもかかわらず、活動は多岐にわたる。
当時のサン=ジェルマン=デ=プレの常連でもあり、
フランスのヌーヴェルヴァーグ前夜の文化状況を語る上で欠かせない人物でもある。
このサイトではエリントンに関するところだけ触れていきたい。
冒頭の引用にあるヴィアンの「ニューオリンズ」とは、ジャズの歴史の進化とは逆行する形のジャズで、
20世紀初頭のジャズ、すなわちアフリカ、クレオール、ヨーロッパの香りを満載し、
黒人と混血と白人、そして奴隷制の記憶とが絶妙に統合されていた頃のジャズだった。
ジャズ発生の頃の勢いを取り戻そう、とする「リバイバル」理念のもと、
ヴィアンはクラリネットのクロード・アバディとジャズ・バンドを結成(1942)。
彼のアイドルのトランペッターはビックス・バイダーベックだった。
多くのアメリカ好きのフランス人と同じように、
ヴィアンもパリをナチス軍から解放したアメリカ軍兵士には幻滅したらしい。
実際のアメリカ人の若者は、エリントンの音楽・編曲や自国のジャズの動向に無知で、
グレン・ミラーのスイング・ジャズに熱狂する田舎者。
この印象が強かったのか、ヴィアンはますますニューオリンズ的なジャズ、
ひいてはエリントンの音楽に拘泥することとなる。
そして1947年、『日々の泡』刊行。
芸術作品然とした、やや浮世離れした若者たちの恋愛小説だが、
詩的なイメージを強く喚起させ、未だにファンの多い作品だ。
冒頭の「序文」はじめ、エリントンの音楽が充溢している。
「こちら、コランよ」と、イジス。「コラン、クロエを紹介するわ」
コランは思わず、生唾を飲み込んだ。口の中にまるで熱い揚げ菓子をいっぱいほおばったみたいだった。
「こんにちは」とクロエ。
「こんにちは……君、デューク・エリントンにアレンジされたんじゃないの」
この「クロエ」という名前はエリントンの曲名から取られたものだろう。
文学少女なら1度ははまる小説、なのかもしれない。
そういえば、岡崎京子によって漫画化されているようだ。
さらにさらに、なんと2013年、ミシェル・ゴンドリによって映画化された!
ただ、この作品はヴィアン自身期待していたプレイヤッド賞を逃し、
このことが彼の反抗的な態度を強めることとなる。
ヴィアンのフランスのジャズ・シーンへの貢献としては、
フランスのジャズ誌に膨大な数のジャズのディスク・レビューを執筆して
ジャズ・ミュージシャンの紹介をしたことなど、
当時のフランスにおいてジャズを広めた功績が挙げられる。
これがまとめられているのがこれ(残念ながら管理人は未読)。
ジャズ・ミュージシャンの紹介、その伝道師っぷりについて、
ヴィアンの伝記から一部を引いておこう。
…彼が何よりも優先したもの。それはタブー(管理人注:クラブの名前)の騒がしい仲間たちに、存命中の神様みたいな人たち、つまり偉大なミュージシャンを紹介することだった。1947年12月5日、レックス・スチュワート楽団。ボリスはレックスのために一晩、誠心誠意サン=ジェルマン=デ=プレの案内役を買って出た。だが、『コンバ』紙のジャズ評で酷評した。激怒したレックスは、公開の場でこの不可解な賛美者のけんかを受けて立つと言った。1948年2月20日、ボリスはディジー・ガレスピーを北駅まで迎えに行った。フランス滞在中、解放後初の連続公演の間、「もぐりのアマチュア」は運転手、交渉役、ボディガード等様々に変身してガレスピーを支え、このソリストにして楽団指揮者をカミュ、クノー、その他大勢に紹介したい一心で活躍した。グレコやカザリスと一緒にタブーについての講演を引き受けることも意に介さなかった。ジャズの大御所のパリ滞在を成功させる義務は、信者の義務なのだ。(196頁)
そしてついに、ヴィアンはエリントンと会うこととなる。
長くなるが、その幸福な出会いも同書から引いておこう。
デュークとのご対面
クラブ=サン=ジェルマンは、ボリスに青春時代の夢の実現を可能にさせた。彼の最大の憧れ、心からの敬服、唯一の神であるデューク・エリントンヘの接近である。彼の「ジャズ・ホット」誌の時評では、デュークの名前が頻繁に引用され、他のジャズの巨匠たちの位置付けが霞んでしまうと不満をぷちまける読者もいたほどである。1949年2月、ボリスはこの特別扱いを正当化する文章を書いている。「デューク・エリントンと唯一人の例外もなく、他のすべてのジャズ・ミュージシャンとの間にはあまりにもスケールの差がありすぎるので、なぜ他のミュージシャンのことを言わなければならないのか、誰も理解できない。事実は、皆仕方なく他のミュージシャンを話題にしているのにすぎない。私も同じだ。私も他のミュージシャンについては何も言うことがない。もっとも、私は何も言わないが」。デューク! 『日々の泡』の守護神。不幸な運命を辿る小説のオプティミズムの源泉。旅行が大嫌いであるにもかかわらず、クロード・レオンと一緒にロンドンヘ行った唯一の理由。ロンドンから郵送したレコードは皆壊れていた。リージェン街の店「欧州のメッカ」へ自ら出向いて買ったレコードだった。
そのデュークがパリに来た! 絶好のチャンス到来に、ボリスはデルニッツとショーヴロとメルルを束ねたよりも優秀な世話役「ムッシュー・忠誠(ロワイヤル)」として、獅子奮迅の働きをする。ジャーナリストを招集し、素人衆に講義をし、上流階級の老婦人たちにはジャズがスノッブなものであること、ジャズと言えばデューク・エリントンであることなどを説明する。音楽愛好家たちの間で興奮が高まる。ファンの逸る心を鎮めるかのように、楽団はテーマ曲「A列車で行こう」を開始し、エリントン編曲の「クロエ」、「ラプ・コール」、「ソフィスティケイティッド・レディ」へと続く。客はジョニー・ホッジスのサキソフォン・ソロのためにデュークがつくった曲やラヴェルから曲想を得た作品、「Chelsea Bridge」や「All Too Soon」の和音のすばらしさについて、語り合う。彼らはデュークが偉大な指揮者であること、天才的な編曲者であることを知り、とても控えめなピアニストを自認していることに驚く。ボリスと仲間たちは、ロンドンで楽団が組合法違反で足止めを食らい、彼が楽団なしで来たことを知る。若い三人の白人カナダ・ミュージシャンが直前に雇用されていた。失望を和らげるため、ポリスたちは、デューク・エリントンが彼の名前で組織した過去および現在のすべてのソリストを思い出す。ジョニー・ホッジスはもちろんのこと、バーニー・ビガード、テナー・サックスのベン・ウェプスター、ペースのジミー・ブラントン、トランペットのクーティ・ウィリアムス、ドラムのソニー・グリアー、トロンボーンのフレッド・ジェンキンス等々。これらの名前のほとんどは、1948年7月19日、クラブに集まる客たちには何の感慨も引き起こさないけれども、必見の公演の期待に燃えた会場の空気は火花が散る感じだった。
午後遅く、ロンドンから来た「黄金の矢」号が北駅に到着し、デューク・エリントンが下車する。彼は戦前に一時滞在した時以来、パリに愛されていることを知っていた。彼はファンの熱狂ぷりを知っていた。彼の耳には「作家=トランペッター」のボリス・ヴィアンという風変わりな「ファン」についての噂も届いていた。資料のボリスに関する項目には、アメリカ小説を書いて黒人の立場を擁護する白人のフランス人と記されている。だが、これほどまでの歓迎とは! 確かに、セルダンやモーリス・シュヴァリエの帰国のような大群衆ではないが。しかし、最良のファンのお出迎えだ。厳選されたクラプ会員たち、ユベール・ロスタン、エメ・バレリ、若いクロード・ボーリング、クラプ・サン=ジェルマンやタブー、ロリアンテのミュージシャンたち。ホーム上にはジャズ・バンド。そして、生まれてまだ数ヶ月のキャロル(ボリスの娘)・母親が彼女をデュークの腕に抱かせる。ホーム上での、写真撮影、ジャズ演奏、打楽器に参加するデューク。
ボリスは巨匠を独占する。彼はただ一度だけ賛美の言葉を述べる。ミシェルとボリスはデューク・エリントンをクラリッジ・ホテルに案内し、部屋をとる。デュークは若いカップルにたちまち魅せられて、優しい微笑みを洩らす。すぺてのプログラムは決まっていた。モンマルトルでの晩餐、デュークに心酔するミュージシャンたちの巣窟クラプ・サン=ジェルマンでの歓迎会。二十三時には、穴倉酒場に入ろうとする客は千人近くになった。パリ中の「エリントン・ファン」が集結したのである。加えて、シモーヌ・シニョレ、イヴ・モンタン、作曲家ジヨルジュ・オーリック、イヴ・アレグレ、マルセル・アシャール、マルセル・パリェロ。クラブの常連とタブーの常連。双方休戦の夕べなのだ。黒人作家のエメ・セゼールとリチャード・ライト(アメリカ人)。なぜなら、デューク・エリントンは何年も前から同じ血の同胞たちのために闘って来たし、サン=ジェルマンとは同志だからだ。
二時間待った後、彼の到着を知らせる歓声が上がる。デュークはあっけに取られる。「彼は少しの楽しみと多くの驚愕を持って、手に負えない子供たちを見にやってきた著名な父親という感じだった」と7月21日付「ポピュレール」紙は書く。ボリスはこの家の当主のように振る舞う。彼らの就寝は遅い。デュークは相変わらず面喰らいながら、自分の作品の世界的な目利きの中でも最高の何人かが彼自身の伝説を語る言葉に、いつまでも耳を傾ける。翌日は昼食時ボリスの新たな質問の後、車で街に出、「プレザンス・アフリケーヌ」誌がガリマール社でデュークのために催したカクテル・パーティに出席する。ボリスは『日々の泡』の重要人物をクノー、ルマルシャン、そして幾分意地悪くガストン・ガリマールに紹介した。
デューク・エリントンはプレイエル・ホールで二回コンサートを開いた。教養のあるファンは少し失望する。彼の連れてきたリズム担当の三人がリーダーの才能をあまり理解していなかったからだ。コンサートを成功させるために、彼は歌手のケイ・デイヴィス、有能な芸術家肌のトランペッター、レイ・ナンスをメンバーに加え、ホールは彼のスイングを取り戻した。デュークはドイツヘ移動するため、パリに別れを告げなければならない。ボリスの手帳には、デュークの直筆でニューヨークの住所が記されている―D.E., 1619 Broadway, NYC。
一時的な出国だった。7月28日、彼はアメリカ便への乗り換えのため再び戻ってくる。午前二時半、デュークは一人でフォーブール=ポワソニエール街にあるヴィアン家のペルを鳴らす。彼は進んで何かご馳走になりたいようだ。ミシェルとボリスは服を着替え、ステーキとポテトフライとパンチを出した。デューク・エリントンが彼らの家を辞したのは朝の七時半である。彼らには話すことが山ほどあったのだ! ミシェルとポリスは彼をクラリッジ・ホテルまで送って行った。何という一週間! 何という夜! 何というデューク! (222-224頁)
ヴィアンは1920年3月10日生まれ、マーサー・エリントンは1919年の3月11日生まれ。
エリントンにしてみれば、ヴィアンはフランスにいる息子のように感じられたのかもしれない。
なお、このヴィアンの項目の伝記的な記述は、次の本を参考にした。
編集方針により「一般の読者には不要と思われるので」、巻末の書誌が省略されているのが残念。
ジャズ関係だけでも載せておいてほしかった…。
索引も充実しており、学術書として安心して読めた。
ヴィアンの解説書としては、同じ浜本正文氏の訳による、
『ボリス・ヴィアン――その平行的人生』(ノエル・アルノー、書肆山田、一九九二年)
があり、これが作品中心の伝記としてはスタンダードとなるものらしい。
この『ボリス・ヴィアン伝』は「生涯・人物像」を中心としたものだとか。
エリントンとの関係に戻ろう。
1950年4月エリントンは再びパリを訪れる。
この月、ヴィアンは自身の『屠殺屋入門』の上演に成功するが、批評家から酷評を受けることとなる。
4月4日にデューク・エリントンがル・アーヴルに上陸した。ボリスは単身駆けつけようとしたが、ミシェルが同伴すると言って聞かない。指揮者は港町の巨大な映画館「ノーマンディ・パレス」で第一同公演をする予定になっていた。ヴィアン夫妻は喫茶店「テルミニュス」でデューク・エリントンと再会する。長い抱擁。ボリスは芸人=トランペッターのレイ・ナンス、ジョニー・ホッジスを除く初対面の楽団員たち――しかし、その演奏はすべて記憶している――と挨拶を交わす。ベースのウェンデル・マーシャル、テナー・サックスのアルヴァ・マッケイン、トランペッターのアーニイ・ロイヤル、ネルソン・ウィリアム、ハロルド・ベーカー。彼らは驚いた―彼らの前にいて時折英単語を探す一人のフランス人が、団員一人一人のキャリアをすらすらと数え上げたからだ。ホテル「ルーペ」のパーティは夜遅くまで続いた。
心を許したボリス。翌日、楽団が運よく列車でパリに到着する間、ルーアン街道でキャプレターのジェットが故障したが、彼の気持ちを腐らせることはなかった。『屠殺屋入門』の総稽古は少し先の四月十一日だ。その時まで……デュークはボリスの案内でクラリッジ・ホテルに落ち着く。彼は巨匠の手形をとる催しの世話をする。ボリスはメンバー相互の強いライバル意識をリーダーがまとめ上げ昇華させた、ソリストたちの最初のリハーサルに出席する。フランス・ロッシュとフランソワ・シャレーが招待され、ボリスや楽団員らとレストランで食事を共にする。これで今回のツアー記事は完璧だろう。ノクタンピュル座の方は? 役者たちが驚いたことに、彼は予想したほど心配せず一日に一時間しか見に来ない。ボリスはデューク楽団と行勁を共にしていることを謝る。4月11日、初演の晩にさえ遅刻寸前の有り様だった。友人たち、サン=ジェルマン=デ=プレ、批評陣が幅広く出席していた。
(中略)
(『屠殺屋入門』の)「フィナーレが三十分遅れた。それほど芝居は笑いでプレーキが掛かり、拍手で中断され、歓声によって切り刻まれたのだ」とアンドレ・レバーズは回想する。「最終的に幕が下りて動かなくなると、目利きたちは舞台に飛び上がった」。ボリスは「幸福感にひたって」いたし、「間抜けな子供のように」微笑んでいた。クノーが全員を夕食に招待して、ジョークを連発し、ボリスを「敬意に満ちた恍惚感」に陥れた、とレバーズは書きとめている。その後で、『屠殺屋入門』の作者は宴席を辞去し、デューク及び楽団貝と別のレストランで落ち合って、喜びを分かち合う。
指揮者は芝居を見に行くことができない。二年前に来た時には完全な楽団編成が組めなかったので、今回は連日首都の公演が待っているのだ。唯一ピアニストのビリー・ストレイホーンがシャイヨー宮のコンサート脱出に成功し、軍隊の中でもとりわけ米軍をからかっているこのフランス語劇を鑑賞した。
パリでは旧交を温める日々が続いた。ボリスは幻の名車(ブラジエ・コンバーチブル)でデュークを案内し、ミシェルは指揮者の妻エバを高級婦人服店や喫茶店(サロン・ド・テ)に連れて行った。ジョニー・ホッジスとの晩餐。毎夜、モンマルトルのレストランや「クロシュ・ドール」、マンサール街のアメリカン・パーで、十人、二十人規模の晩餐会。クラプ・サン=ジェルマンでの打ち上げ。ボリスは嬉しさのあまり芝居のことを忘れるほどだった。4月14日芝居の一般公開の午後遅く、『屠殺屋入門』の作者はデューク・エリントンとラジオ局のスタジオ入りをし、次いで伝説の店「ミュージック=ショツプ」へ行く。19時、二人はまだカフェで議論している。22時30分頃、ノクタンピュル座で新たな拍手喝采。またしても、友人たち。またしても、批評家。役者たちは二~三人の顔見知りの演劇担当記者が手放しで喜びを表し、笑い、そして拍手するのを見たと回想している。
(中略)
4月16日朝、ポリスは新聞を置く。すぺての劇評は恐らく手古摺ったに違いない演出兼役者のアンドレ・レバーズに対する気の毒な祝辞に終わっている。あたかも出来の悪い戯曲をもっとうまく舞台に乗せ、もっとうまく演じることができたかのように! 勝手な言い分だとポリスは一刀両断し、デューク・エリントンの音楽に酔いしれるため引き返す。二十四時間に三公演、彼は舞台裏に座りっぱなしでジャズを聴く。楽団員たちが芝居の反響はどうだったか訊ね、その芝居を理解しようとする。ジャズの百科事典的アマチュアであるボリスを愛さない者はいない。ジョニー・ホッジスは彼らの国であり、ボリスの国でもあるアメリカヘの移住を勧める。『屠殺屋入門』の作者はもちろん、唇を固く閉じ、甲高い声で、返答を避け、話題を骨抜きにし、冗談に紛らわす。「冷たい怒りがボリスを突き動かしていた」とアンドレ・レバーズは指摘している。「私は嵐に先立つ不気味な静けさの中にそれを感じた。少し凍りついたような微笑、青白さを通り越して薄緑色になった顔色の中に」。 4月21日、デューク・エリントンはパリに別れを告げる。 (257-260頁)
自分の作品の上演以上に、エリントンとの再会を喜んだ様子がうかがえる。
だが、同時に自分の作品の評価がアンビバレントなものだったことも注意しておきたい。
ジャズの伝道師としての功績は大きいものだし、
問題作を上梓して物議をかもすことに長けてはいたが
(米黒人作家ヴァーノン・サリヴァン名義で書いたハードボイルド/犯罪小説など)、
ヴィアンが生きている間は、その作品が高く評価されることはなかった。
管理人は、このことがヴィアンの視野を狭くしたのではないか、と危惧している。
「彼には教養や創造性やデューク・エリントンに対する好みによってのみ他人を判断する習性がついていた。」
伝記のこの文は、管理人にこんなくだりを思い出させる。
「僕らは同意してる。人の価値は人間性でなく好みで決まるのだと。
本やレコードの趣味が第一条件。
浅い人間で結構。でも、これは紛れも無い事実だ。」(『ハイ・フィデリティ』)
("A while back, Dick, Barry and I agreed....that what really matters is what you like...not what you are like.
Books, records, films—These things matters. Call me shallow. It’s the fucking truth.")
『ハイ・フィデリティ』は大好きな映画で、この言葉も激しく同意する
(以前にあるブログでも取り上げたくらい)。
その趣味・嗜好からその人の人間性が垣間見える、というのも真実だ。
同意するし、真実なんだけど……やはりこれは狭量で偏狭な考えだ。
文化的な趣味・嗜好はあくまでその人の一部でしかない。
それを人間判断の第一条件とするのは極端だろう
(もっとも、こういう心理状況になるのは、往々にして社会的に追い詰められているせいであり、
『ハイ・フィデリティ』の3人も、ヴィアンも例外ではない。
ただ、この考えはある種の慰めにはなるかもしれないが、その状況を打破する力になることは難しい)。
21歳の時に結婚したミシェルと離婚し(『日々の泡』そのままだ!)、不遇のまま過ごした1959年。
意に沿わぬ形で映画化された『墓に唾をかけろ』の試写中に心臓発作で急死することになった。
それは医師が「トランペットを辞めなければあと十年しか生きることができない」と言ってから、ちょうど十年目のことだった。
ボリス・ヴィアン。1920~1959年。きっかり39年だ。エンジニアの計算は正確だ。
いずれにせよ、40歳は彼にとって決して望ましい年齢ではない。年を食い過ぎているか、若すぎるかのどちらかだ。
ヴィル=ダレーの墓地では、一つのシーンが彼を喜ばせたはずだ。
葬儀社の従業員がストライキを起こし、友人達が皆で棺を運んで埋葬しなければならなかったからだ。(378頁)
ヴィアンはクリエイターとしては不遇な人生を送ったかもしれない。
だが、紹介者・媒介者としては一流だったといえるのではないか。
ヴィアンの晩年、フランス映画界のヌーヴェルバーグは、
ルイ・マル、ロジェ・ヴァディム、ミシェル・ルグランらと蜜月を築き、
ヴィアンの死後には映画『Paris Blues(邦題:『パリの旅愁』)』が公開され(1961年)、
1963年にはエリントン・オーケストラの、あのとんでもない"The Great Paris Concert"が実現することとなる。
ちなみに、『Paris Blues』の音楽はエリントンが担当している。
これらはヴィアンの蒔いた種が実を結んだといえるだろう。
また、雑学的なトリビアを一つ付け加えておくと、
ヴィアンの2番目の妻、ユルシュラ・キュブレールはバレエのローラン・プティ団のダンサーだった。
ローラン・プティといえば、2001年に牧阿佐美団の「デューク・エリントン・バレエ」の演出・振付を担当したことが記憶に新しい。
ここにも「媒介者」としてのヴィアンの功績があるのかもしれない。
最後に、管理人が残念でならないのは、ヴィアンがエリントンを半ば崇拝し、
個人的にも濃密な関係を結んだ40年代後半~50年という時代のエリントン・サウンドが、
エリントンの行き着いた音楽ではなかったことだ。
エリントン・サウンドは、ヴィアンの死後も変化した。
60年代の異種格闘技戦、ストレイホーンの死後のワールドミュージック回帰…。
63年のパリコンはじめ、56年以後のカムバック以後のエリントンサウンドを、
ヴィアンならどのように聴いただろうか?
ジャズの進化を認めず、バップに心を奪われなかったヴィアンだったら、
世間とは反対に高く評価しないような気もするのだ。
変化を続けるエリントン・サウンドを、ヴィアンならどう評価したのか。
いずれにせよ、その早い死が残念なのである。
ボリス・ヴィアンについては、大谷能生がこの本でまるまる1章を費している。
『持ってゆく歌、置いてゆく歌―不良たちの文学と音楽』、大谷 能生(2009, エスクァイアマガジンジャパン)
以下は蛇足ながら、翻訳の話。
『日々の泡』の序文は少し訳しにくい。正確に言うと、決めゼリフとして訳すのが難しい。
そもそもここは「決める」ところなんだから「デューク・エリントンの音楽」とズバッと書けばいいのに、
「ニューオリンズ「か(ou)」デューク・エリントンの音楽」なんて書いてるからいまひとつ締まらない。
先人たちの訳文にも、苦労の跡が伺える。
人生では、大切なことは何事にもかかわらず、すべてのことに対して先見的な判断を下すことだ。そうすると、実際、大衆が間違っていて個人が常に正しいということがわかってくるのだ。そこから行動の指針を引き出すのは考えなければならない。何もわざわざ言葉にしなくても、黙ってそれに従ってればいい、二つのことがあるだけだ。それは、きれいな女の子との恋愛だ。それとニューオリンズかデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい。なぜって、その他のものはみんな醜いからだ。(『うたかたの日々』、早川書房、1979年、伊東守男訳)
人生でだいじなのはどんなことにも先天的な判断をすることだ。まったくの話、ひとりひとりだといつもまっとうだが大勢になると見当違いをやる感じだ。でも、そこから身の処し方の規則なんかをひきだすのは用心して避けねばらなぬ。遵守するための規則などこさえる必要もなかろう。ただ二つのものだけがある。どんな流儀でもいいが恋愛というもの、かわいい少女たちとの恋愛、それとニューオーリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから。(『日々の泡』、新潮社、1970年、曾根元吉訳)
ところどころ相違があるが、原文があまり論理的な流れになってないので、解釈の問題といえばそうなのかと。
管理人は、全体的な流れとしては曾根氏の訳の方が好みなのだけど(伊東氏の訳は読点の打ち方が気になる。)、
曾根訳は肝心の「それとニューオーリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽」がいけません!
ここは「ou」を素直に訳してほしかった…。
「いや、この「ニューオリンズ」とは、音楽ジャンルとしての「ニューオリンズジャズ」ではなく、ジャズ発祥時の熱を帯びた精神を表しているのであって、
当時ヴィアンがその精神を最も色濃く感じていたのはエリントンだから、この「ou」は「つまり」という訳でよいのだ。むしろ「つまり」が正しいのだ。」という反論があるかもしれない。
まあ、そういわれればそうですね。
あと、冒頭の管理人訳では、a prioriはそのまま「アプリオリ」とした。
これは、『日々の泡』という小説自体があえて衒学的な表現をとっているところが散見できるから
(この「背伸び感」もこの小説の魅力。こういうところも思春期(の女の子)にはグッとくるのだろうし、
苦手な人はとことん苦手なのだろう。この小説、好き嫌い分かれます)。
その雰囲気には、「アプリオリ」のままが一番しっくりくるのではないか。
(2013. 11月)