勉強する人、しない人。
サッカーする人、しない人。
料理する人、しない人。
信心に限らず、何にでも言えることだと思いますが、
するのが楽しければするし、楽しくなければしない。
また、
例え時に楽しくなかったとしても、
楽しみたい。分かりたい。もっと知りたい。上手くなりたい。
などのワクワクがあれば、
人に「勉強しなさいよ」なんて言われなくても、
勝手にしちゃうのと同じように、
信心も単純なもので
「自分に関係ないもの」と思っていれば関わる事はないし、
興味を持つか持たないかは、人それぞれだと思います。
たとえて言えば、
家の隣に、ものすごく有名でおいしい料理屋があったとしても、
興味がなければ行くこともないですし、
食べたことがなければ味も一生分からないままです。
教祖様の時代でも、教祖様の家の近くの人は参らず、
遠方から「有り難い神様がおられる」という噂を聞きつけてお参りされる方が多かったようです。
しかしながら、神様は
料理屋のごちそうは食べなくてもよいが、
金光大神が話している天地金乃神のおかげは、受けないわけにはいかない。
また、多くの人の中には、
私は天地金乃神を拝まないがそれでもさしつかえはない、
と言う人もある。
これは恩を受けて恩知らずというものである。
と、おっしゃられているので、
興味を持って知ってみた方が、良いことあるんじゃないかな~。
と、個人的には思います。
ある先生が、こういうお話をされました。
信心のある者と、信心のない者とが、
同じ病で、同じ月日患うて、全快してもなぁ、
信心のない者は、
「大病をしました。難儀をしました。長い間患いました。金もいりました」
と言うて、全快した体には、衰弱と難儀じゃったということが残ろうが。
信心のある者は、その難儀の中から、
「よう助けて頂いた。有り難うございます。これ程の病気を、よう助けて下さいました」
と、有り難うに御礼が申せようがなぁ。
それじゃから、信心で全快した身体には、
ああ、有り難う存じましたと、有り難い徳が残ろうがな。大変な違いじゃなぁ。
難儀か、衰弱が残って、病気は癒えても、後がまた大変じゃが、
信心のある者は、同じ様に難儀や衰弱はあっても、
身体の芯に有り難いという徳が残って来るから、
一度患えば一度、二度患えば二度、有り難さがはっきりして、お徳が頂けるのじゃ。
私は、
そこに「ありがたいな~」という思いがあるかどうかが大事だと思ってます。
そこに喜びがあれば、幸せです。
今の時代でも同じことが日常で起こっているのではないでしょうか?
病院に行っても、
「何時間も待たされた」
「医師や看護師の対応が悪い」
「自分にあう薬を出してくれない」
「何回も通わせやがって、病院の金儲けや」
「家族は病院まで送ってくれん」
「入院しても、誰も見舞いに来ない」
イライラして文句ばかり言って、
治療が受けられる喜びや有り難さは全くなく、
みんなのお邪魔になっていないでしょうか?
自分が助からず、周りも助からず、
知らず知らずのうちに、世界不和に貢献している場合があります。
神様に心を向け、
神様にお願いさせていただき、
神様のお考えをじっくり尋ねてみる。
そうしないと落ち着けず、安心出来ないところが私にはあります。
何も考えず、その時の感情のままに、
バーッとやっちゃって失敗しちゃう。
そんなこと、ありませんか?
なければいいんです。
幸せなら、それでいいんですけどね。
何か助かりを求めておられる人がおられましたら、
一緒に助かっていきたいなぁと思うております。
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