金光教の死生観とは、
言いかえますと、教祖様の死生観ですね。
「今、死にたい」
「なぜ、生きなければいけないのか?」
「生きる意味が分からない」
そのような思いで、苦しんでおられる方が、世界に沢山おられると思います。
何かお力になりたい。
教祖様が今、生きておられたら、何をどのようになさるでしょうか?
そのような思いの中、自分の力の無さを日々感じております。
(『天地は語る』 金光教教典抄 28)
と、教祖様は仰せられました。
生きる中に、色々なことが、日々起こってまいります。
良いことばかりではなく、
苦しいこともあれば、耐えられない出来事もあります。
そんな中、教祖様をはじめ、信心の先輩方がどのように
自ら「生きる力」を生み出していったのか?
それは、
「今、神様はどう思われているのか?」
という問いが自分の中に生まれてくるかどうか?
であると、今現在、個人的にはそう思っています。
信心を進めておりましても、
嫌なことが起こってきますと、
嫌なことばかりに目がいって、
その問いが自分の中に出てこない時があるかと思います。
例えて言いますと、
自分に対して嫌なことばかり言ってくる会社の上司がおられるとします。
その上司は口を開けば文句しか言わない。
だから、顔をあわすのも嫌になり、避けて通るようになる。
それでも、見つけるように追いかけては嫌なことを言ってくる。
なんで私だけ言われなければいけないのか?
こんなに頑張っているのに。
これでも、私なりに精一杯、やれることはやっているのに。
もういやだ… 会社辞めたい… 私は何をしてるんだろう…
そう思うことはありませんか?
あいつ(上司)がいるからだ。
あいつさえいなくなればいい。
私は悪くない。
そんな風にも思ってしまいませんか?
金光教の願い、神様の願いは、
そううじこみのうえあんぜんせかいしんのへいわ
と言われています。
自分が助かるだけでなく、
相手も一緒に助かる方法とは何なのだろう?
今、神様が願われていることは何なのだろう?
自分の目だけで物事を見てとらえるだけでなく、
神様から見ればどうなのだろう?
教祖様は、常に、神様と共に生きられ、
神様と対話をしながら生きておられた方であると思います。
そのようなことを色々と考えますと、
金光教の死生観とは、
金光教の「神観」「人間観」に繋がるということでしょう。
自分が本当に困っている時は、
相手のことなどどうでもいい。
相手の助かりなんて願えない。
相手が憎くてたまらない。
それはそうでしょう。
それで良いと思います。
まずは、自分が助かることが、
神様の助かりであると思います。
後のことは、自分が本当に助かってから考えます。
物事には順序というものがありますから、
こういった「死生観」のお話も、どんなお話でも
みんながみんな、納得のいくお話というのは難しいものです。
まずは、
「生きる意味を気軽に話し合える場がある」
ということを、知ってほしいと思います。
真剣に話がしたいけど、話す相手がいない。
真剣に話をしたのに、バカにされた…
そんな経験をされたことがある方で、
話す場を求められておられる方は、
どうぞ是非教会にお参りください。
金光教に興味が少しある方は、
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