この「ありがたい」と思って、お供えされるかどうかが大切だと思います。
出したくないもの、したくないものは、されないことが一番です。
正直な心を神様は喜ばれます。
時々、周りの方から
「(宗教施設から)また寄付を募られた…」
という声を聞いたりしますが、
したくないものは、一切する必要はありません。
今までの付き合いがあったり、
「霊様をお祀りしてもらってるから…」という思いがあったりして、
「しょうがないなぁ」という思いで、
お供えされておられるかどうかは分かりませんが、
そういうものは、お供えとは言わないと思います。
「神様の教えどおりに願って…」ということですから、
教えも知らずに「信仰」とは言えませんので、
属する宗派の教えを知ることから始められた方が良いかと思います。
そこで納得できなかったり、
宗教家の言ってることとやってることが違うと思うのであれば、
信仰の自由がありますから、
自分好みのラーメン屋を探す感覚で、
自分にあった、自分が魅力を感じる宗教を選べば良いと思います。
「お供え」と言えば、現代は「お金」というイメージの方もおられますが、
「お供え」は、「金銭」だけに限りません。
天地の神様のお働きを受けて、作物を育てさせていただき、
そのお働きへの感謝の思いを込めて、
お米やお野菜などをお供えされる方もおられます。
ご先祖様の多くは、「御初穂(おはつほ)」を、まずは神様にお供えさせていただき、
収穫を喜び、ありがたくお恵みをいただいて、命を繋いでこられたことと思います。
お供えは全て、教会の先生にお供えするとか、
そういう心では、「お供え」とは言えません。
神様にお供えするのであって、人心を挟んではいけません。
また、教会にお供えするだけでなく、家の神棚や仏壇に、
毎日お水やご飯、お榊をお供えされる方もおられます。
神様あって…
このお水あって…
このご飯あって…
ご先祖様、御霊様あっての今の私である。
お恵みを頂戴している。
そのお礼を込めて、お供えされているのだと思います。
誰かに言われてするものではありません。
有り難い思いを、思いだけに終わらせず、何か行動をもって現したい。
そんな思いが形になって、お供え物を供えるのだと思います。
家族の方が亡くなられたら、
先祖様と併せてお祀りする合祀祭(ごうしさい)の日まで、
毎日、新霊床に食事をお供えされる方もおられます。
好きだった物をお供えするのも、
霊様に喜んでほしい。
一緒にいただきたい。という思いからでしょう。
大切な友人や知り合いの方が亡くなられた時のお供えも同じことだと思います。
スーパーなどで買ってきた物でも、
毎回、全て神様に一旦お供えしてから、
そのおさがりを料理し、いただいておられる方もおられます。
きちんと三宝というものにお供えしても良いでしょうし、
時間がない時は、スーパーの袋のまま、
ドサッとお供えするのでも良いでしょう。
私が子どもの頃は、お菓子は必ず神様にお供えしてからいただいていました。
「食べてもいいですか?」と、神様に聞いてから食べたりしていました。
それは、親様が「自分で稼いだお金で買ったもんやから」という思いではなく、
「自分の力だけで出来たことは何もない」ということが、分かっていたからでしょう。
スーパーで買うにしても、様々な目に見えないもののおかげを見て、
神様のおかげと感じておられたのだと思います。
私の場合、性格的にとてもけちくさいので、
「お供えするのは、もったいない」と、すぐに思ってしまいます。
また、「お供えしてどうなるんだ」 なんて心も出てきます。
でも、沢山の人や物にお世話になって、今の自分があるということを、
心から感じさせていただいた出来事があったので、
その命のお礼を、一人ひとり、一つひとつに、
本当はさせていただかないといけない思いもあるわけです。
しかし、現実には、毎日毎日、人や物にお礼をしていても、
それは尽きることはないですし、時間も足りません。
なので、
「神様にお礼申しますから、そのお礼を、沢山の人や物へのお礼とさせてください」
とお断り申し、自分に出来るお供えをしつつ、神様に日々お礼申しております。
目に見えるものしか信じない世の中に段々なってまいりました。
神棚や仏壇がある家も減ったことでしょう。
親様と同居される方も減り、
お祖父ちゃんお祖母ちゃんが神仏に手をあわせる姿を見ることもない。
お日様に手を合わせる人々も減ってきました。
しかし、この世の中には、
目に見えるおかげより、目に見えないおかげの方が多いと感じています。
本当は、そういうおかげに感動し、心よりさせていただくのが「お供え」です。
お供えして何か意味あるんか!
と疑問がある方もおられるでしょう。
お供えについて、もっと興味のある方は、
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