ここからは、金光教の神様について、お話をします。
金光教の神様は、「天地」です。
「天地金乃神様」 (てんちかねのかみさま) と申します。
その「神様のおはたらき」を、「天地のおはたらき」と言ったりします。
その「神様」とは? 「天地」とは?
一体何なのでしょうか?
金光教の教祖様は、岡山県浅口市生まれの農民でした。
なので、農作物の成長には、天地のおはたらきが欠かせないことを、
身にしみて感じておられたことと思います。
都会では、雨は嫌われ勝ちですが、
清滝教会周辺は、まだまだ田んぼや畑が多いですから、
作物の成長にとって、雨を望んでおられる方が多く、
「そろそろ雨が欲しいな~」
「雨が降らないかな~」という言葉がついつい出てきます。
待望の雨が降りますと、
「今日は、いい雨だったね~」
「恵みの雨だった。水道の水をやるのとでは訳が違う。やっぱり雨でないと…」
という具合に、雨を喜びあっています。
雨の後というのは、本当に作物の成長が著しく、
草も一気に伸びていきます。
そういう姿を、日々目の当たりにしていますと、
天地のおはたらきを感じやすいと思います。
しかし、田んぼや畑と無関係で育つ都会の方々からすれば、
雨は、ただの不都合なもの。
雨は、気持ちが悪く、嫌なもの。
とだけ、思っておられる方もおられると思います。
また、野菜がどのように育っているのかを見たことがない。
スーパーにならんでいるパックに入った肉や魚しか見たことがない。
切り身のまま魚が泳いでいると思っている子もいるほどです…
何でもお金があれば手に入る。
そういう考えにもなり勝ちな世の中になってしまいました。
今の日本は、田んぼや畑が減ってきて、
海外から食べ物を輸入し、生活が成り立っています。
日本人が食べている物は、半分以上が、海外からやってきたものです。
自分たちが食べる物を、自分たちの国では作っておらず、
食糧難で食べれずに死んでいかれる人が多くいる世界情勢の中、
日本人は、平気で食べ物を残し、捨てています。
これは、毎日、平気で人を殺しているのと、同じことであると思っています。
日本人全員が真剣に考え、変えていかなくてはいけないことの一つです。
神様である天地は、農作物だけでなく、
人間や動物、草木など、
生命のある全てのものを育てはぐくむものです。
そのことを、本当に分かることが、
人間として、大切なことであると思います。
「なんや、そんなん当たり前やん」
そうです。あたりまえのことです。
でも、
その天地のおはたらきを、毎日本当に感じているのか?
その天地のおはたらきを、毎日見ようとしているのか?
その天地のおはたらきを、心から有り難く思っているのか?
自分はいったいどうなのでしょうか?
今の日本は、
その天地のおはたらきが、見えにくくなっているように思います。
あたりまえである、天地のおはたらきを、
学校で教えてもらったことはありません。
何でも自分でできる。
自分一人でも生きていける。
18歳までの私は、本当にそういう風に思っていました。
目の前の、目に見える出来事ばかり見て、
目に見えない、私を生かそうとする天地のおはたらきを、
全く見ようとせず、感じようともしていない私がいました。
親様が生きているのは当たり前。
ご飯が食べられるのは当たり前。
家に住めるのも、布団で寝ることができるのも当たり前。
あぁ学校嫌だな。勉強したくないな。面白くないな。
早く一人暮らししたいな。好きなように生きたいな。
おいしいものを、自分が稼いだお金でいっぱい食べたいな。
自分中心、自分勝手な考えであったと思います。
神様? そんなもん知らん。
そんなん考えたこともない。
そんなん考えんでも生きていける。
はっきり言って、そう思っていました。
しかし、
そういうことを真剣に考え、
目に見えないものを見ようとし、
生かされて生きている自分を感じようと努力し、
人間が生きることの意味を求めている金光教の人達と接し、
なんだか私よりキラキラしているな~。
なんだか私より生きているな~。
私もそんな風になりたいな~。
段々と、そう思うようになりました。
恵みの神様のお働きを、知識で知ることと、
実際に感じることは、全く別です。
「知る」とは、生き方が変わること。
生き方が変わっていなければ、本当に「知った」とは言えず、
それは「知らない」のと同じことである。
そのように、ある方から教わり、妙に納得した経験がございます。
恵みの神様である「天地」と出会うということは、
「喜びの世界がはじまる」ということです。
金光教祖御理解 第1節は、
なんですね。
まさにそこから、新しい命が始まるのだと感じています。
読んで下さり、ありがとうございました。
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