金光教の教祖様は、岡山県金光町にある自宅で参拝者を待ち、
人の願いを神に申し上げ、神の思いを人にお伝えする
お取次(とりつぎ)をされていました。
それは、教祖様の時代から、金光家の子孫に受け継がれ、
今は六代教主金光様が、ご本部でお取次の御用を続けて下さっています。
教団トップの方に、アポなしでいつでも会え、
自分の悩み・お願いごとなどを聴いて頂けるなんて、他宗では有り得ないことだ。
と言われたりしますが、全くもってその通りだと思います。
本当に金光教信奉者は、日々有り難いことの土台に生かされているのだと感じます。
「み教え」というものは、 その参拝者一人ひとりが助かるために、
教祖様を通して神様が言われた言葉と言われております。
なので、一人ひとりに対して、言っていることが全く違います。
病院の先生が、患者さんの状態によって診断が違うように、
ある方には「お酒を飲まんがよろしい」と言われ、
ある方には「お酒を飲むがよろしい」と言われていたりします。
なので、人間の「死」に対するみ教えでも、
様々なお言葉が、一人ひとりにあったわけです。
「死とは何か?」 「死んだらどこへいくのか?」
参拝者の質問に対して、教祖様はみ教えくださっています。
ある方には
と仰せられました。
「魂」とは、「分け御霊(わけみたま)」と言われたりしますが、
これもまた、なくなることのない「いのち」なのだと思います。
一般的には「人魂(ひとだま)」と言われ、
おたまじゃくしのような形をして、人間の体の中から抜け出し、
ふわふわと飛んでいるような姿を見たと言う人がいたり、
「写真におさめた」と豪語する方もおられます。
肝試しを企画する時など、火の玉やライトなどを使って、
人魂を演出することを考える人も少なくはないでしょう。
まぁ、何にしても、「そんなこと信じてるの? バカじゃね~の?」
そう言われてもおかしくない内容だと思います。
でも、「じゃ~、人間は死んだらどうなるの?」という真面目なお話になった場合、
バカじゃね~の?的発言も、果たして本当にバカなのだろうか?とも思うわけです。
人間が死ぬ瞬間に何度も立ち会ってこられた病院の先生方のお話は、
やはり興味深いし、説得力があるように思います。
「神のもとへ帰る」 その神とは天地なので、すぐそこにいるとも言えます。
また、ずっと遠くにいるとも言えます。
ある方には
と仰せられています。
なので、家の霊舎を拝む時には、そこに御霊様がおられますし、
お墓参りをする時には、そこに御霊様がおられますし、
御霊様に何かをお願いする時には、すぐそばにおられるように私は思っています。
読んでくださり、ありがとうございます。
更に興味のある方は、死後の世界はある?をご覧ください。
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