パート2です。
金光教の信心において「天地書附」が重要なものであるとお話しましたが、
という文言があります。
以前、一心について書かせていただきました。
字のごとく一つの心、惚れ込む心、清き心というように、
「自分が一心に願えば、必ずおかげがいただける」
という感覚があるのですが、
今回お話する「一心」は、ちょっと違った感覚のものです。
「自分の心と神様の心が一つの心になる」という「一心」です。
ある先生が、こんなことを言われました。
「自分の心の持ち方次第で難儀にもなれば、安心にもなる、という人間本位の考え方ではない。神に頼む、というぎりぎりの宗教的行為の中で、かろうじて生まれでてくる心がおかげを生み出す心。一心に願うということと、和賀心にあり、ということが切り離せないものとしてある。二つがペアになっている。人間が願って神様へ向かっていく姿勢と、神から人間に向かってこられる、二本の線の交わりというものが、一つの信仰的世界を生み出していく」
ちょっと何言ってるか分からないかもしれませんが…
何か困ったことがあって、自分が神様に「一心」に願う。
それで終わりじゃないということです。
一方通行ではない。
片便で願い捨てではない。
自分が一心に願っているのと同時に、
いや、それよりもずっと前から、神様から願われているんです。
自分が一心に願うことで、
神様の思いを知らず知らずのうちに感じさせていただき、
神様の願いを受け取って、
神様と一つになる。
自分の願いと神様の願いが一つになる。
自分だけが求めて必死になって願うということではなく、
神様の思いを感じ、神様のことも考える。
そういうお働きを、
一心に願うという中でいただくことだと思います。
ということは、
神様に御礼をさせていただく。と言っても、
自分が御礼させていただく一方通行ではなく、
神様からの思いを考えていく、感じていく。
そして一つの心になる。
これが一心であり、
ここに神が生まれることであり、
生神ということだと思っています。
一心に願うことで、
有り難い思いにならされている。
ということですね。
「一心に願う」ことと「和賀心にあり」ということが
切り離せないペアになっているもの。
とおっしゃられていましたが、
「和賀心にあり」というのは、
自分が和らぎ喜ぶ心になるように取り組む。
ということではなくて、
「神様と人間が心を尽くし合って生まれたもの」なんですね。
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