私はケチくさいので、すぐそう思ってしまいます。
例えば、神様にお礼の気持ちを込めて、千円お供えしようと思ったりします。
でも、
この千円があれば、あのお菓子が○個買えるし、
お店でおいしい○○○○も食べられるな。
と、大体おいしいものを食べたい欲が走ります。
しかし、
そういう風に食べることが出来たり、
毎日元気でいられるのは、神様のおかげだとも思うわけです。
天地の神様がいなくなるということは、
この天地がなくなることであって、
空気がなくなることだし、太陽がなくなることだし、
神様に嫌われれば、食べ物が食べられないどころか、
1秒も生きていられないということも分かるわけです。
あ~、やっぱりお供えさせていただこう。
そんな葛藤があります。
でも、金光教の教祖様は、
と、み教えくださっています。
それを信じて、お供えさせていただきます。
実際に、
ふらっと寄ってくれたおじちゃんが、
「お土産~」と言って、すごい物を持ってきてくれたり、
ほしいと思っていたものが、「うち使わないから~」とやってきたり、
そんなことがあったりしました。
そんな話をしたところで、
「そんなのたまたまだよね?」と言われたりもしますが、
「たまたまでも、そうなったら良くない?」とも思ったりします。
結局は、自分自身が、
「神様のおかげ」と思えているので、それで良いとも思っています。
私の考えでは思いもよらないようなおかげをいただけば、
「お供え」に対する思いも変わってくるかと思います。
また、
目には見えないお金のまわり方というものが、
この世の中にはあるとも思います。
お金に好かれる生き方が、あると思います。
信心してどうなるの?
信仰してどうなるの?
お供えしてどうなるの?
このラーメン食べてどうなるの?
この薬飲んでどうなるの?
勉強してどうなるの?
色々な疑問があったとしても、
結局、やってみないと分からない。
それに尽きますね。
「お金を使うこと」って、考えますよね。
生活かかってますから。
スーパーでは、1円でも安くて良いものを買いたいですしね。
お金を使うことって、本気になります。
それは、お供えでも同じことだと思います。
電話するにしても、今は無料電話が当たり前の時代となりましたが、
以前は「○秒○円」と、料金が決まっていましたから、
電話するのも本気さが違ったような気がいたします。
神様に「一心」に願い、願い事を叶えていただけるのであれば、
お供えする意味は、自分で納得していくと感じています。
「お供えさせていただいたからには」
「意地でもおかげをいただく」そんな覚悟もあったりします。笑
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