金光教の建物の雰囲気などをお話したいと思います。
やっぱり宗教施設って、何してるか分からんので、
「ご自由にどうぞ」なんて言われても、
入りにくいったらしょうがない。ということなので、
少しでも入りやすくなれば…との思いです。笑
私が教会に何を求めてお参りしていたのか?
を改めて考えてみますと、
① 神様に心を向けることが出来る空間・場がある(御広前)
② 先生がおられ、話を聴いてくださる(御取次)
③ 様々な活動がある(青少年育成・典楽など)
が思いつきます。
ですが、本当の根っこの思いとしては、
人間の本当の生き方が知りたい。
これに尽きると思います。
金光教の教会を知らない人が世界には多くいます。
「私は金光教の教会に住んでいます」とか、
「私は金光教の教会で御用(仕事)をしています」など、
「教会」という言葉を使うと、
キリスト教の教会をイメージされることが多いです。(泣)
しょうがないですよね…
歴史の長さの違いは大きいです。
「教会」と言っても、十字架は当然ないです(汗)
椅子が並んでいる結婚式場のようなチャペル感もないです…
(でも、そういう雰囲気の金光教の教会もあります)
外観は、普通の家である教会が多いと思います。
そもそも、金光教の教祖様は、自宅の一室に神様をお祀りされ、
自分自身が神様を拝ませていただいていました。
「神様のおかげを受けた人がおるらしいぞ…」という噂が広まり、
人が勝手に教祖様の家に来て「私も助けてくれ。拝んでくれ」と言い、
お参りするようになったのが始まりなので、各教会も同じ流れだと思います。
なので、歴史ある仏教のように、本堂があり、講堂があり、教職舎がある。
という風に建物が分かれているというよりも、
自宅の中に神様をお祀りしている部屋があり、礼拝できる場があり、
会議する部屋があったり、教師が生活をするスペースがある。
という形の教会が、全体的には多いと感じています。
立教から150年が過ぎ、各教会でもおかげを受け、
境内の広さが拡大されたり、建物が新しくなった教会もあれば、
昔のままの教会もあり、教会によって様々です。
基本的には畳の御広前(おひろまえ・礼拝部屋)が多いと思います。
洋式で靴のまま参拝出来る教会も中にはあります。
御広前(おひろまえ)には、
向かって正面に神様をお祀りさせていただき、
左に霊様をお祀りさせていただいています。
右には御結界(おけっかい)という場があります。
しかし、教会によっては左に御結界がある場合もあり、
神様・霊様を中央に一緒にお祀りされている教会もあります。
御結界に金光教教師が座らせていただき、
お参りされた方の悩み事、心配事、お礼事、お詫び事など、
神様に聴いていただきたいお話を、神様に代わって聴かせていただきます。
御結界での取り次ぎが、金光教の大きな特徴であり、
「御取次・おんとりつぎ」と言われているのですが、
字のごとく、
人の願いを神に取り次ぎ、神の思いを人に取り次ぐということです。
なので、
金光教教師のことを「取次者・とりつぎしゃ」とも言います。
岡山県・金光町にある御本部では、教主金光様が御結界に座られています。
宗教界においては、教団のトップにいつでも会え、お話することができることを伝えると、
他宗では、とてもびっくりされることが多いです。
(今は一日中教主様が座られているわけではなく、交代制で座られています)
元々、ある事情で「金光教」独自の信仰ができない時代背景があり、
神道に属していた頃もあったので、雰囲気としては神社系です。
神主様のような装束を着て祭典を行います。
神社と大きく違うところは、先ほども申しましたとおり
常に教会には金光教教師がおり、お話することが出来ることだと思います。
(教会によって、事情がそれぞれなので、常駐していない教会もあります)
神社でも神主様が常駐しているところもあるとは思いますが、
お話できるかどうかは、ちょっとよく分かっていません…
金光教の教会は、「人が助かりさえすればそれで良い」との教えのごとく、
建物の外観や御広前の形などは、各教会にお任せなので、
「こっちの教会はこうなのに、あっちの教会はこうなんですね…」
と言われることもあり、統一感がないところが多いです。
「そこが良い」と言われる人がおられれば、「そこが嫌」と思われる方もおられ、
はっきりしていないところが確かにあるなぁと感じます。
自分なりの解釈としては、色んな教会があった方が、色んな人が助かるのかな?
と思ったりします。
例えば、ラーメンでも醤油味が好きな人がいれば、とんこつ味に命をかける人もいます。
同じラーメンでも、ラーメン屋によって味はそれぞれですが、
「おいしいと言ってもらい、喜んでいただきたい」という願いは同じ気がします。
(細かく言えば、願いもそれぞれでしょうが…)
好きか嫌いかで言えば、
教会の建物の雰囲気にも好き嫌いがあり、
教会の先生の雰囲気にも好き嫌いがあると思います。
また、「人の助かり方」にも、色んな流れがあると思います。
金光教の教祖様は、
と、おっしゃられましたので、
どの教会へ参るのも自由であるどころか、
どの宗派へ参るのも自由であるとおっしゃられています。
要は、あっちの教会、こっちの教会にお参りしたり、
こっちの先生、あっちの先生に相談するというよりも、
「ここ」と決めたところに「一心」となり、信心させていただくことが大切。
ということですね。
なので、「ここ」と腹が決まるまでは、
色んな教会をお参りされたら良いでしょうし、
色んな先生のお話を聴かれたら良いでしょうし、
色んな宗派を勉強されたら良いと思いますが、
「ここ」と決まれば「一心」に求めさせていただくことが大事だと思います。
なので、「金光教じゃないと助からないよ」という思いは全くないです。
それでも、ここと決めたところが金光教であれば、
やっぱり嬉しい気持ちはあるもんですね。
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