信心させていただき受けられるおかげ
金光教の「おかげ」とは何か? を考え、
のお話をさせていただいてきました。
結局のところ、今回お話する
「信心させていただき受けられるおかげ」が、
なかなか理解しきれない人が多いと感じています。
なんせ神様は
「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬぞ」
とおっしゃったくらいです。
私が「すごいなぁ」と思う、金光教の信奉者の方々は、
一般の目は気にせず、頭のネジが何本かはずれたような、
「何でそんなことできるの?」という、
おかしな魅力を持っています。
人生を楽しんでイキイキしており、
常に「喜び」や「有り難さ」がある。
そんな風に見ていて思います。
金光教のみ教えに
真(しん)にありがたしと思う心、すぐにみかげのはじめなり。
とあります。
おかげの出どころ、源泉は神様である。
このことが本当に分かること。
そうなれば、もう何でも有り難くなっちゃいます。
神様から受け取るものは、何でもありがたいということです。
どんなものを受け取ったとしても、
そこに「喜び」や「有り難さ」がなければ、
自分自身にとって、おかげではありません。
例えば、プレゼントを誰かからもらったとして、
ある人は喜んで、ある人は喜ばない。
ということがあります。
高級ステーキ肉をもらっても、
肉好きの人は喜ぶけど、肉嫌いの人は喜びません。
しかし、肉嫌いな人が高級ステーキをもらっても、
相手が自分に喜んでほしいと思ってプレゼントをする
その気持ちを受け取って、喜ぶ人もいます。
信心させていただくことで、
ものの受け取り方や見方・考え方を学ばせていただき、
何事も有り難くいただく心を
育てていただいているのだと思います。
「人から何かをいただく」という、その先に
「目に見えない神様のお働き」を感じ、
「神様からいただいているもの」がある。
という感覚です。
神様の思い通りになること
自分が願って、その願いどおりになることがおかげではなく、
神様の願い通りになることがおかげだと思っています。
例えば、
小さい子がおやつを食べたい、買ってほしいと願います。
でも、親様は
「今おやつを食べると食事がいただけなくなる。
食べ過ぎると体にも良くない。」など、色々と考え、
子どものことを思っておやつを買わなかったりします。
子は自分の願いが叶わなかったのでギャンギャン泣きます。
親はその様子を見て、おやつをあげたい思いはあるけれど、
グッと我慢して、嫌われ者になってでも、やり過ごします。
自分の願いがあるのと同時に、
親様の願いもあるわけです。
それと同じように、
人間の親様である神様の願いもあります。
自分の願いが叶えば、幸せになれるのでしょうか?
そんなことを言い出したら、
「銀行強盗が成功しますように」
「いじめた相手が傷つきますように」というお願いでも、
神様は何でも聞き届けて叶えないといけなくなります。
どうなることが正解で、幸せになれるかどうかは、
人間では分からないことが多いです。
分からないからこそ、神様の思い通りになることを願います。
しかし、自分から生まれくる自分の願いも大切です。
自分の願いを一心に願うからこそ、
生まれてくる神様のおはたらきがありますので、
願うことは大切なことだと思います。
もう少し、
「信心させていただき受けられるおかげ」を
考えていきたいと思います。