神や仏を信じて祈ることが「信心」ですが、
金光教では「一心に」祈ることが重要視されています。
「この神様大丈夫なんか?」
「願って意味があるんか?」
「でも、願いを叶えてほしい…」
これでもう三つの心です。
一心になるとは、なかなか難しいです。
神様の方に向かってお祈りする時に、
本気で願っているでしょうか?
「どうせ願っても叶わない」と思っていませんか?
その願い方では、叶わないのは当然だと思います。
人に何かを頼むのも同じことですよね。
「この人」と思って一心に頼めば、
頼まれた人も「何とかしてあげたい…」気持ちになります。
「どうせこの人はやってくれんだろう…」
と思って頼んでも、その通りやってくれないでしょう。
また、
あの人にも頼み、この人にも頼み、
「これだけ頼めば誰かがやってくれるだろう」では、
誰も助けてくれない可能性が高いとは思いませんか?
金光教では、あの神社で頼み、このお寺で頼み、
そういうことはせんでもええ。と教えられています。
それどころか、助かる道はそれぞれだから、
本気で金光の道を求めるのであれば金光で良いし、
自分にとっては仏教やキリスト教の方が合っていると思えば、
その宗教で良い。と教祖様はおっしゃられています。
でも、ここと決めたらトコトン行く!
あ~分かりやすい宗教ですね。
教祖様はおっしゃられました。
たとえて言えば、女でも、
いよいよ一心を打ちこむ男は一人しかいない。
この男こそと思うたら、心の底から一心を出して、
身も心も打ちこんでしまうのでなけりゃ、まことの恋ではない。
他の男を見下げるのでも、嫌うのでもないけれど、
わが身も心も打ちこんでいきたいのは
この男であるというのでなけりゃならぬ。
なるほど… 一途です。
恋をすれば、一心が分かる。ということですね。
しかしながら、頭で分かっても心で分からない…
ある人も、一心になれずに苦しんでおられました。
「金光様、一心と申すこと、はなはだむつかしきものと思います。
拝みながら、色々のことが思われましたり、
心の内がどさくさといたしますようにござりまするが、
どういうものでござりましょうか」
とお尋ねされました。
すると、教祖様は
一心になる心は、子供をこしらえる時のようなぐあいに思い知れよ
と、おっしゃられました。
え? まさかの下ネタ?
御取次の頂き方はそれぞれで、教祖様のお話から
これ、実の一心なり。
子供をこしらえる時に、とても、歌を歌い歌いはできぬ。
また、余のことを考え考えではできぬ。
実に、一心とは一筋の心なり。
と、その方は悟り感心されたそうです。
私のような者の一心が、とても神様に通じるようには思えませぬ。
そう思う人も多いと思います。
何が一心なのやら? 分からなくなったりもします。
教祖様の時代も、そこで悩んでおられる人がいました。
その方に教祖様は
「そんなら、通じぬ方がよいのかな」
とおっしゃり、
「いや、それはどうしても通じねば困ります」
と言うに他ならず、
「それみなさい。
聞き届けてもらおうと思うてご信心しておるのじゃろうがな。
そこを神様がお受け取りくだされておるのじゃ。
此方も、そこをくんでやってくだされいと願いそえて、
信心を足してあげておるのぞ」
と、おっしゃられました。
信心する者の足りないところは、
御取次のお働きにより、教祖様のご信心で足してくださる。
そうであれば、とても安心ですね。
また、
神も人間も一つこと。
ご自分でかなわぬ時は、神から神に頼んででも助けてくださるから、
神に力が足らぬということはない。
どこでもよいから一心に信心せよと言うのであるぞ。
わかったかや。
と仰せられました。
神様にも繋がりがあり、神様同士で助け合ってくださるのであれば、
それはまた力強いことです。
神徳を受くるは、
人間心の位も思わず、
理屈も言わず、
学問うぬぼれ心なく、
清き一心さえあらば、
神のみ戸は開ける。
どういう一心か?が問われています。
初めは自分中心の、我情我欲の一心でも良いでしょう。
ただ、そればかり続いては、
「あんたは、いつも自分のことばかりやね」と、
親なら思うのが道理でしょう。
神様に叶う一心を求めてまいりたいと思います。
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