金光教の神様やみ教えが好きで信じており、
教会に毎日熱心にお参りされている人は、
信心していると言うのでしょうか?
でも、教会では一生懸命であっても、
家に帰れば教えを忘れ、家族に対して偉そうなことを言い、
「教会で何を学んでるの?」と思われる行動をとっていれば、
それは「信心」とは言わないですね。
家や教会で家族のことを祈っていても、
「いっつも祈ったってんのに…」なんて言っていれば、
「誰も祈ってなんて頼んでへんわ!」と喧嘩になります。
やはり、
日々の生活の中で、み教えを実践しているか?
神様に喜ばれる生き方になっているか?
神様と共に生活しているか?
いつどこで何をしていても、神様に心が向いているか?
日々の生き方が大切であると思います。
教祖様のみ教えに
というものがあります。
「信じる」+「祈る」を「常に」行っているか?
それが「出来ている」「出来ていない」ことが問題ではなく、
取り組もうとしているかどうか?
これが「信心」であるとも思います。
金光教の御信者様の中には、
先生に「参ってこいよ」と言われたから、渋々参る人もいます。
そういう人を見ますと、
嫌なら参らなくて良いのにな… と切に思います。
何を目的にお参りするのでしょうか?
どういう気持ちでお参りするのでしょうか?
教祖様のみ教えに
ここへたびたび参って来なくてもよい。
参って来ても、金をこれだけ使った、
これだけあればあのことができたのにと思うようでは、
神様にご心配をかけるようなものである。
神様は親であるから、
氏子が心配するのはかわいそうだと思われる。
無理にたくさんの金を使って参らなくても、
うちで信心しても守ってくださる。
とあります。
自分で願って自分でおかげをいただけ。
とのことですから、
自分の家で願えば良いです。
しかしながら、お参りはとても大事なことで、信心の基本。
とおっしゃられる先生も多いです。
それもそのはず。家で「一心」に祈れたら良いですが、
段々と我流になってきたり、だらけてきたりしますよね。
神信心も小学校生徒の手習いも同じことぞ。
一段一段と進んでゆく。にわかに先生にはなれぬぞ。
との教えですから、
ダンスやサッカー、塾やそろばん等、子どもの習い事と同じです。
家で一人で練習して上手になれるのであれば、
それで良いのでしょうが、
一人では分からないことが多かったり、
テンションが下がったりして続かなかったり…
やっぱり指導者がいて、ダンスが出来る広い部屋だったり、
サッカーが出来る大きなグラウンドの設備だったり、
そういうものが必要であるように、
信心も、神様に心を向けやすい空間があったり、
一緒に求めてくれる先生がいてくださることが、
大きな力になることがあると思っています。
「いやいや、そんなの家でYouTube動画見ればいいんです」
「塾で教えてもらわなくても、家で検索すれば、大丈夫ですよ」
そんな風に言われる方もおられますが、
それはそれで、インターネットの恩恵を受けられ、
その場で教えてくださる方がおられるので出来ることであって、
有り難い思いがあり、喜びがあれば良いでしょう。
でも、一人で「一心になる」のは、難しい面もありますね。
また、
ここへは信心のけいこをしに来るのであるから、
よくけいこをして帰れ。
夜中にどういうことがないとは限らないから、
おかげはわが家でいただけ。
子供がある者や日雇いの者は、
わが家を出て来るわけにはいかない。
病人があったりすれば、
それをほうっておいて参って来ることはできないから、
家族中が健康な時に、
ここへ参って信心のけいこをしておけ。
教会は「けいこ場」です。
ピアノ教室に通っている人は、
みんながピアノを弾けるわけではないです。
でも、「ピアノが上手になりたい」と思っています。
それと同じように、教会にお参りされている人も、
みんなが人間の本当の生き方が出来ているわけではありません。
しかし、本当の生き方を求めるために、
お参りされているのだと思っています。
そういう雰囲気が、何年も積み重なったものがあると思います。
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