小西行長と寺社破壊

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(小西行長,イメージ見直し,キリシタン大名,寺社破壊,肥後文献叢書,渡邊玄察文書)

5年前の朝日新聞web版に,「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長という記事が載った. その時は斜め読みしただけであったが,肥後文献叢書の渡邊玄察関連文書を読んでいる際,新聞記事を思い出し,再度読みなおしてみた(現在もリンクが張られている).

内容は記事タイトルのとおりで,居城があった宇土市の市史編纂の過程で,新たに発見された全国規模の発掘史料に基づく研究結果とのことである.小見出しとして「寺社弾圧 尾ひれつき伝承」,「秀吉に忠実 現実主義者と書かれている.

小西行長(1558-1600)は関ヶ原で西軍の将として戦いに敗れたため,石田三成等と共に斬首された.一方,加藤清正は,別件で家康の意に反した行動をとったため国元に留まるように命じられ関ヶ原では戦っていない.しかし,息子の忠広は,家光によって改易され,庄内藩に預けられ流人の身になった.豊臣秀吉に才知を認められた両人ではあるが,幕府にとっては両家共に気になる存在であったようだ.それにしても,小西行長は加藤清正と比較して人気がない.ところが,居城だった宇土城跡(宇土城山公園)には行長の銅像がたっている.この銅像は没後380年の1980年に建立されたが,除幕式後2年間はトタンで覆われていたとのことである.その理由は,行長がキリシタン大名であったため,神道や仏教を弾圧し,県南の社寺を焼き払ったという言い伝えがあり,「公費無駄遣い」,「破壊する」等の声がよせられたためらしい.

イメージ見直しの根拠は以下のとおりである.

  • 小西行長は豊臣政権の重臣であり,肥後の田舎に居ることは少なく,支配体制の整備を急ぐあまり,無理をした.

  • 秀吉がキリシタン禁教令を出したのは,行長が熊本県の南半分の領地を与えられる前年の1587年であり, 秀吉の方針に反して神道,仏教を弾圧することは考えられない.

  • 寺社の破壊は,行長がキリシタンだったからではなく,その寺社が反体制的だったからである.

  • 太閤検地により寺社の領地(寺社領)が取り上げられたことも反小西の一因.

しかし,広域の寺社破却があったのは事実である.益城の早川(そうかわ)厳島神社(阿蘇神社末社)の神主であった渡邊玄察(1632ー?)が纏めた文書(拾集昔語三,早川故事,拾集物語三:肥後文献叢書第四巻収載)に,被害者側としての手掛かりがある.玄察は父や祖父から伝え聞いたことやその事実を物語る事柄を書き残している.

拾集昔語三,拾集物語三には,以下のような記述がある.

  1. 小西氏領民が切支丹に改宗しないため,領地内の寺社はことごとく焼き払われてしまった.

  2. 当明神の木像御神体は,祖父が岩穴に入れ,小西氏支配下では入口を塗り塞いで隠し通したと父親から聞いた.

  3. 釈迦院の鐘等も山上から引き下ろし,宇土で銭に鋳造したと古老から伝え聞いている.金海山大恩教寺釈迦院:延暦18年(799年)創建,加藤清正,忠広により再興され,今日に至っている.

  4. 早川厳島神社の大楠は伐り倒し大船の建造に使われ,小西行長の弟を乗せ,兄の高麗での陣見物のため渡海する際,無風,順風にもかかわらず対馬の沖で沈没したと言われている.「大船一艘のほか,枝にてほそきくりふね七艘を作った」とも書かれている.

早川故事には,秀吉の九州平定に伴う寺領召し上げにより,早川三社48の大小祭礼が断絶したと書いている.物理的な破壊と異なり,歴代伝承してきた祭礼等の中断による精神的痛手は大きかった様で,犬追流鏑馬の祭礼の詳細を書き留めている.小西氏が滅び,別の場所に仮殿を造り10年間隠した御神体を祀ることができたのは,清正,忠広の治世になった1600年である.実際に祭礼が復活したのは何十年もかかっているようである.

小西氏の支配に反発した具体的な話も書き残している.関ヶ原の戦いの際,玄察の祖父渡邊軍兵衛は,小西氏の宇土家老衆から「野伏頭として益城の野伏千人を連れて戦場に罷り出る」ように要請されている.軍兵衛は要請に従うが,西軍の悪気陰気な様を見て,東軍に付き,大府様(江戸幕府をさす)の御印を貰って無事国元へ帰っている.

加藤清正,小西行長は,佐々成政が肥後国衆一揆の不手際で失脚した後に,肥後国を南北二分する形で領地を与えられたため,地元既成勢力の影響下にあった寺社領の存在は邪魔だったに違いない.注)現在,熊本県南の寺社の多くで「小西行長の焼き討ち」の後に再興されたという説明が目につく.

当時,九州においては,領民を強制的にキリスト教に改宗させたり,神社仏閣を破壊するなどといったことが有馬(晴信)氏,大村(純忠)氏,大友(宗麟)氏など大名単位で行なわれていたことは確実である.他の宗教に対して寛容だった黒田官兵衛のような存在として,小西氏を位置付けするのは無理があるのではないだろうか.小西氏入国後の具体的弾圧事例は,「拾集物語三」に社寺名(青太文字部分)を含めて記述されているので参考にしてほしい.入領当初は慈悲深く見えたが,時間が経つと態度が硬化し,益城,御船,甲佐,松橋等においては,誰一人キリシタンに帰伏しなかったため,寺社は悉く焼滅させられたと書かれている.

◯参考にした記述は,肥後文献叢書に掲載されているものである.

拾集昔語三

  • 鑓長刀は宇土小西御領分之砌圓福寺に在宅被召侯渡邊三藏と申仁押取被召侯由に侯

  • 當社迄に不限小西氏領分之寺社は悉(ころごとく)焼失被召侯

  • 前々之證文由來書有之侯はゝ差上侯へとの觸にて侯.是に目出度まねかた迄に成共可被仰付との事かと各差上申侯處に二度と不被返失念之由語傅侯.小西氏入部即年之事にて侯

  • 當所之明神之木像軀なども山口の岩穴に入置口をぬりふさぎ,小西氏御領分中は隱置申侯由申傳侯.木原村六殿宮は其砌御綸旨一通御座候よしに付別條無之由に侯.當所神明御神軀の御下座いたませられ侯事は渡邊軍兵衛右之通に當所山口岩穴に多年隱置申侯砌いたませられ侯と亡父被申聞置侯,先祖以來無念にて如此にも御座候哉と可存侯などゝ存侯故爲念に書出置侯

  • 釋迦院の鐘なども宇土に引下(ひきくだ)し錢を鑄られ侯之由金海山(きんかいざん)之山下(さんげ)之古老當分まて語傅侯(拾集物語には,鐘を引き下ろした時に岩かどに当たった時の傷跡を古老が示したと書かれている

  • 當嚴島社内楠の根ぼたに小市郎大納言と申仁の陵にて侯.然處に小西氏領分之砌此ほたぐす生木の森五間四方程の大木楠にて有之侯を剪侯て大船一艘新に此楠木 一本にて被作出舎弟主殿と申仁之幼少の弟をのせ守りには右に書出侯.當所圓福寺々地に在宅被致侯渡邊三藏と申を相付け高麗へ兄小西氏在陣見物に被致渡海侯に對島の沖にて無風順風にくるりくるりと其船まひ海底にとつふりとしづみ船中の人々は勿論何色にても一物も見えずなく成侯.類船別條なく證に立此段小西氏へ達侯申傳侯.此事なぜ書置侯に彼楠之根榾(ほた)ほり出し泉水築山之類具或は指物之臺あしなどに致間敷上下を論せず此ほたなど所望にあひ侯とても遣す間敷取間敷侯.秡(はらい)殿之庭に 少々此ほたぎれあいしらひ置侯事は神前なればにて侯.矢滿下(やました)といふ由緒三社之由來後筆に書出侯に委細書出侯楠之事小市郎由緒も書出侯(拾集物語には,玄察の代に古い木株が残っていると書かれている

早川故事

  • 右三社之祭禮年に四十八ヶ度の大小祭禮従前々執行仕候.社頭渡邊軍兵衛吉次後筆に書出可申之通に権大宮司役天正二年(1574)之比(ころ)迄慥(たしか)に執行仕候由に御座候得共(えども),同十三四年(1585, 6)比秀吉樣御下向之砌寺社領被召上右之祭禮旁(かたがた)空しく断絶仕候

  • 此事書出懸御目申度奉存色々書出し右書出候樣に,益城は小西殿第一良領にて御自分は關ヶ原御出陣に付,宇土家老衆より私祖父渡邊軍兵衛吉次古侍之段御存知然共彼者前々より有名成る神道社業之者故方々遠近有知無知彼者に對し邪宗門に罷成不申候とて行長殿を初失ひ度被思召候軍兵衛故家老諸役人衆より軍兵衛儀益城郡の野伏頭に被申付益城中の野伏千人を引率し關ヶ原へ罷上候へと被申付.其儀に随ひ野伏引率し罷上候申候由に御座候.然に彼軍兵衛軍法軍配合戦勝負の陰氣陽氣見申候處に石田殿小西殿方に悪氣陰氣立申候故忍ひ申候て大府公樣の御陣へ参上仕御目附ら敷御方へ,私儀は小西行長領内紀州益城郡内へ罷在候古侍筋の者にて當分百姓土民と罷成一村之庄司(荘官)にて渡邊軍兵衛吉次と前々申候者にて御座候,今度關ヶ原江(え)行長公出陣に益城之野伏之頭に小西殿之家老役人より被申付,野伏一千程引率し罷上申候 然は大府樣之御陣には陽氣之能氣立見へ申候,石田殿小西殿之陣へは陰之悪氣立見へ申候間隠密に引率申候野伏共召連夜白不論罷下可申と奉存候 慮外(ぶしつけ)乍憚(はばかりながら)御味方之下々と可申候間其御書付拜受仕度旨願可申上處へ申上候 而願之通にと御座候て軍兵衛に人を被附置御帰候て被仰付候は下々には有心成者と被思召候 忝(かたじけなく)も大府樣の御印を被為拜領候間關所關所其外咎(とが)め候處處に拜戴仕せ野伏引連國許へ罷下候へと被仰付候て忝も御印被下候を守袋に奉納大坂にても支不申海陸相支へ不申國元え帰着仕申候へは,はや三成公,小西殿御生捕にて清正公御持病押て御出陣成りをらせられ候に,大津の上車帰の峠(二重ノ峠)にて,右之通飛脚大坂留守居衆より慥(たしか)に申來候由に付御引帰り大津より鹿來瀬川を被押渡木山町より御放火御船熊之庄より宇土に御取懸宇土城代南條玄宅處(遽?,にわかに)降札二十日に落城被仰付大府公樣え宇土領落着肥州無事之旨被仰上候故討取肥後一國ふさねて清正公へ被為拜領候と申傳候

拾集物語三

小西攝津守行長公肥後南部右之通御拜領之事

  • 當益城第一行長公御領分之最第一と御自分は勿論御家中迄も御申侯由に侯就夫熊の庄當分之古城御城に御築きなほし可被成と思召侯へ共薪山御不自由に御座候とて御用捨被成侯由申傳侯

  • 小西殿御入部之時分は御慈悲に御座候て無理非道之樣に御糺(ただす)被成御欲心に無御座候處に五三年過侯とくらくらとやみに入侯樣に御仕置もこまかに在宅御免にて村々に御給主在宅色々非事第一は

中略(捨集昔話3と略同じ内容のため)

  • 年貢課役はさりとては福裕なる御領主にて和らしく恩免あられ百姓の色目を國代(郡奉行と検断を兼務)よりも直し侯由に侯へ共,才足(催促)人を被相附切支丹宗旨になれなれとのせがみ毎年毎月に御領内の者共うんじ(うんず,嫌になる)はて侯由に侯,然共領内の男女一人も邪宗に不令歸伏侯故に益城にては熊の庄、吉野山、木原村雁廻山、阿高村千地耶寺、松橋にては談議所、龜甲山、飯田山、邊場山、早川三社の社僧社人、甲佐三宮、同御船若宮、同東禪寺、圓福寺、照山寺、大雄寺、安養寺、淨光院、正法禪寺、養明寺、長宮寺、多門院、福王寺、法正寺、大御堂、法幢寺、小川圓福寺、長谷寺、瑞眼寺、道禪寺、青蓮寺、臥龍院、不動院、靈通寺、右の外寺社数多所の禪眞頓宗の諸僧宗旨に令障怨邪宗門に不令歸伏侯而之の山寺を始め悉く破却被召侯,沙門諸出家清正公の御領内に被致逐電今熊本へ住寺と成傳來之寺々まゝ多く侯八代郡釋迦院、益城の龜甲山、飯田山は譯け有山寺故亡所には領主とても押滅難被成被立置侯愚老が祖父渡邊軍兵衛吉次彼者一人神道の張本者とて兩三度及滅罪侯を後筆に可書出の通にて死場をのがれのがれ被致侯其科ば切支丹に吉次教訓にて不相成侯との事にてあぶなふ存くらし侯と吉次被申侯由に侯

  • 行長侯初入領五七年は右に書出侯通に成程下々へも慈悲深情の仕置にて侯處に切支丹に不致随意以の外のにくみより仕置からく非分の課役多く彌増下々拜敬の寺社燒亡破却被有民百姓非分の殺害事々多く侯へども一人も切支丹に不令随意罷在來侯と申傳侯

中略

  • 小西殿被領侯間に寺社建立後記に相殘り申樣成結構之事彌羞敷花車(ヤサシキヤシヤ)風雅の道など毛頭無之只一筋に切支丹宗門繁昌の事迄の故宇土殿御代に如此に有之侯有來侯もの見事なる賞翫之類一色も無之侯武勇は被勝たる領主之由申傳侯此謂は清正記に有之侯就夫不令細書侯

肥後文献叢書は近代デジタルライブラリーで見ることができるが,画像資料である.「こじょちゃんの玄察かぶれ」に文字データにしたものが掲載されている.一部参考にさせてもらった.なお,肥後文献叢書と異なるところは訂正した.

・朝日新聞Web版の記事,「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長

バテレン追放令

小西行長の部屋 宇土市デジタルミュージアム

・キリシタン大名のリンク先はWikipediaである.

・宇土市城山公園の小西行長像はリンク先(キロクマ!熊本素材写真アーカイブス)のフリー画像を表示しています.

2016.3.27