往生院と放牛地蔵(祖母のこと)

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昨秋.祖母の実家(緒方)の墓のある往生院(池田1丁目)へ行ってみた.

祖父が若くして亡くなった後,親代わりに父の面倒を見てくれたのは祖母の実家の養子(緒方末喜)であった.最近,過去帳を見ていたら,空白のところに「義父(緒方末喜)の供養を怠るな」と父が書いているのを知った.薬学専門学校への進学や薬局開業等の具体的な理由が書かれていた.そのことがきっかけで昨秋初めて墓参りをした.

緒方末喜

祖母の姉と結婚した緒方家の養子,熊本県議会議員を務めていたという話は聞いていたが,確証がなかった. そこで,国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで調べてみた.

昭和7,8年の熊本県勢要覧の県議会議員リストに名前が掲載されていた.

緒方熊次郎の氏名が刻まれた墓碑があった.祖母方の曾祖父であり,DNAの繋がる直系の先祖である.「有禄士族基本帳」(明治7年当時)には次のように記載されている.

緒方弥五七 従前八等官留守徒士

旧名弥五兵衛

緒方熊次郎 右弥五七長男 明治三年十二月十九日家督

明治六年三月九日旧藩札交換掛雇佐敷へ出張被仰付同五月三日御用相済候付免職

明治三年十二月父病気に付隠居家督奉願候處願之通被仰付候事

熊本区第二大区七小区百九十三番宅地士族

熊次郎は明治三年父(緒方弥五七,旧名 旧名弥五兵衛)の家督を相続し,明治六年には旧藩札交換の業務などに携わり佐敷に出張したと書かれている.

現在の墓は緒方末喜(熊次郎の娘婿)が改葬したようである.緒方家の姉妹と結婚したことが刻されていた.末喜没後,次の代は養子,養女で直系は途絶えた.緒方のDNAを引き継いでいるのは自分と姉妹だけであることを思いながら,境内を一巡した.以下に示すように由緒ある歴史を感じる寺であるが,手入れされていない墓も多い.そのためであろうか,長期間放置されている墓地の整理に関する知らせが貼ってあった.

この寺は、1226年安貞2年)法然の弟子弁長(聖光上人、聖光坊弁長、弁阿と号した)が白川の辺に白川山往生院として開山した。これを加藤清正が古鍛冶屋町に移した。その後、元禄中年(1688-1703)に飽田郡古町村に替地されたが、堂宇が完成しないうちに、1724年享保4年)現在地の池田村に移った。江戸時代にはこの地域における浄土宗の触頭の任に当たっていた。触頭(ふれがしら)とは、江戸時代に江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のことで、本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。 往生院は明治10年の西南の役の時、熊本城攻撃の時の薩軍熊本隊本営となった。熊本隊は攻撃中止の変更を受け、吉次に転進した。なお、往生院の隣の光永寺(浄土真宗西本願寺派)も、一時薩軍に占領され、戦闘の地になったので、本堂、山門に弾痕が残っている。

  • 寺の本堂の前に僧放牛が作った放牛地蔵100体目という巨大な石仏がある。その前に放牛地蔵六体目がある。

放牛地蔵

寺の本堂の前に僧放牛が作った立派な100体目の石仏(放牛地蔵)があった.その存在は何となく知っていたが,見るのははじめてであった.

県内のあちこちに108体くらい確認されていると市の観光サイトやウエブログ等に書かれている.

放牛僧がなぜ地蔵を彫り続けたかは写真(熊本市の説明,クリック拡大)を見てほしい.

これまで放牛地蔵については,特に注目したことはなかった.調べてみると自宅の近くにも2体あり,島崎地区には4体あることが分かった.

第029体 熊本市大江1丁目10,子飼橋通りと新屋敷通りの交叉点にある善行寺境内

新屋敷の自宅から直線距離で50メートル位しか離れていない寺の片隅に放牛の地蔵が存在することを知らなかったのは迂闊だった.研究に追われて心のゆとりがなかったと言った方がよいかもしれない.

それにしても表からみたらゴミ置き場かと見間違うような場所で,風雨に晒され痛々しい姿である.1km位の距離にある是法神社の地蔵は小さな堂に祀られている. 善行寺の地蔵に関しては,私が知らなかっただけで毎年地蔵まつりをやっているそうである.

第092体 熊本市大江4丁目19,開新高校の向かい側の是法神社境内の小さな堂

関連リンク

往生院 (熊本市) - Wikipedia

放牛石仏を求めて

(2012/2/14)

追記(2012/7/3)

熊本藩年表稿(熊本大学リポジトリー)の記載事項

享保17年,法師放牛地蔵百体建立を発願し,享保7年以来建立,大願成就し,この年出町村往生院に百体目を建立す,同年11月8日歿す.